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2016/12/02 | KAJIMOTO音楽日記

●ポゴレリッチ来日直前インタビュー!Vol.2


Vol.1はシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」の話まででした。続きはモーツァルトの「幻想曲」からになります。

前半にも増して、ポゴレリッチという人はなんという知識と洞察力の持ち主かと驚かされます。

長文ではありますが、それでは再び、
ぜひご一読ください!

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──シューマンは「幻想」の大家でしたが、今回あなたが演奏するモーツァルト《幻想曲ハ短調》は、幻想曲の典範であるだけでなく、時代を超越した創作だと思います。この曲を聴いて、1875年に作られた作品だと誰が思うでしょうか! あなたはこの作品をどのようにお考えですか?

 たしかに、この曲の書法の論理性と完璧さには、圧倒されるのと同時に困惑させられます。短い曲の中でさまざまな対比が緻密に描き出され、激しさの中に優雅さを感じさせます。転調とピアノ語法の巧みさは革命的で、時代をはるかに先取りしていました。この曲をどのように弾くべきか、最初はまったくわかりませんでした。時間をかけて思考を熟成させ、少しずつこの曲の作曲手法の論理に導かれて弾き方を模索し、「幻想曲」というものの概念が明確になっていきました。モーツァルトのこの幻想曲は、彼が幻想する世界というだけでなく、未来を想像する旅なのです。そのシンプルで優雅な作曲手法は、プロコフィエフ、バルトーク、ストラヴィンスキーなどに引き継がれています。モーツァルトは完全に未来を予言していたのです。わずか35年の生涯だったのに!

──それに気づいていない人が多いのは残念ですね。モーツァルトをただ「美しく」「愉快な」ウィーン古典派の作曲家としか考えていない人もいます。

 ひとりの作曲家を理解するには、時間と根気が必要なのです! これは本当に容易なことではありません。表面だけをなぞって満足し、すべてをわかったつもりになる人が多いのです。もうひとつ、人間は不確実な事象に対して居心地の悪さを感じるものですが、だからこそ彼らはこのような音楽に心を動かされるのでしょう。昔の聴衆は知性的で、注意深く演奏会を聴いたものですが、現在そのような聴衆は少なくなったと感じます。

──後半のプログラムは、ラフマニノフ《ピアノソナタ第2番》です。

 これはラフマニノフがローマを訪れた際にインスピレーションを得て構想を練った作品です。ローマに行った人は、誰もがこの街にさまざまな印象を持ち、その風景を深く心に刻むでしょう。ラフマニノフのような才気あふれた人物にとって、ローマの街はまさに稲妻のような衝撃を与えたに違いありません。そして、この永遠の都を音楽で表現しようと思ったのでしょう。私はこの作品から、ラフマニノフの豊かな想像力、情熱、驚くべき旋律と和声を生み出す天賦の才能、そしてコンスタンティヌスの凱旋門の前で燃え上がる南国の熱い血を感じます。

──あなたは以前から1931年の改訂版を演奏していますが、1913年版を参考にしてその一部を加えようと考えたことはないのでしょうか?

 ラフマニノフは自身の作品に度々手を加え、より簡潔に整理し、論理的な手法で改訂版を書き上げました。ですから、私は1931年の改訂版を演奏するのです。私は作曲家を何よりも尊重しています。ラフマニノフが改訂版として発表したのですから、私は彼の決定に従うだけです。切り貼りをして私のヴァージョンにすることはできません。

──ラフマニノフの作品によく現れるモティーフとその音楽的性格をどのようにお考えですか?

 その質問には別の角度からお答えしましょう。ラフマニノフは「あなたの音楽は“メランコリック”ですね」と言われると、「いいえ、私の音楽は“悲しみ”なのです」と答えていました。そのため、彼の音楽は“悲しみ”だと考える人が多いようです。しかし、それは「ラフマニノフの彼自身の作品に対する感想」であって、ほかの人が彼と同じ感想を持つとは限りません。ラフマニノフの音楽が彼にとって“悲しみ”であっても、私にとってはそうではないかもしれません。音楽というものは、人間の感情をはるかに超越した力を持っています。創作者自身が想像したり感じたりした以上に豊富なのです。私にとって彼の音楽は、無限の活力と美を私たちに与え、生きることの素晴らしさや価値に気づかせてくれるものです。これが音楽の矛盾に満ちたところで、天才がもたらす矛盾だと言っていいでしょう。
 それから、どのような作品に対しても、ある特定の解釈を当然のように受け入れるのは間違っています。もちろん私たちは作曲家がその作品を書いたときの状況や背景を尊重しなければなりませんが、ある作品がその時代のレールから外れて新たな道筋を切り拓いていくことがあることも事実です。真の芸術とは、まさにそのような作品で、聴く人々の感性を刺激し、奥深い芸術を味わわせてくれます。それは私の自分自身の仕事における願望でもあります。


──《ピアノ・ソナタ第2番》のほかに、日本では《ピアノ協奏曲第2番》も演奏されますが、ラフマニノフ自身の1924年と1929年の録音について、どのように思われますか?

 私たちが聴いているのは録音で、生の演奏ではありません。私に言わせれば、両者はまったく別のものです。彼の演奏を実際に聴いた人々による描写に基づいて、様々なことが考えられます。ある人は、彼は喫煙のために血液の循環が悪く、力強い演奏はできず、「軽く」聴こえたと言っています。もちろんこれはただの伝聞に過ぎませんが、伝聞ではなく事実なのは、彼が早くから才能を発揮していたにもかかわらず、優れたピアニストのもとで技巧の訓練を受けていないということです。彼の従兄弟のアレクサンドル・ジロティが幸運にもリストに師事することができたのとはまったく違います。ラフマニノフはプロの演奏家になることを決めてから、練習に多くの時間を費やすようになりました。しかし、練習、演奏会、録音の準備、それぞれに時間がかかり、やり方も違います。恐らく彼は録音の準備にそれほど時間がかけられなかったのだと思います。このようにも考えられます。料理人がお客のために魚を調理するとき、彼自身は昼食にベーコンを食べるでしょう。お客に肉を調理するとき、彼自身は魚を食べるでしょう。創作の材料についてよく知っているからといって、その解釈が必ずしも真理であるとは限りません。傍観者の方が距離を置いているため、よりよい判断ができることもあります。ラフマニノフやプロコフィエフの彼ら自身の作品の演奏を聴いていると、心の中にそのような思いが湧くことがよくあります。

──最後にひとつ、あなたの機嫌を損ねるかもしれない質問をしたいと思います。聴衆の中には、その作品の一般的な録音とあまりにも違う演奏速度を受け入れられない人もいます。とくに遅い速度は……。そのような聴衆に、あなたの速度の道理をどのように説明したらいいのでしょうか?

 音にはそれぞれ必要とする長さがあり、音楽にはそれぞれの性格があります。音は音楽の性格、コンサートホールの空間、演奏するピアノによって変わります。音の問題は空間の問題であり、その空間に対応する音量の問題だと私は考えています。たとえば私は録音をするとき、空間に対する自身の態度を変えます。私が最も気を配るのは、マイクにどのような音が取り込まれるかということだからです。ですから、録音するときの演奏はステージでの演奏ほど自由ではなくなります。とくに速度……、実は私はこの言葉が嫌いなんです。私にとってのそれは、単なる「速度」(speed)はではなく、「脈動」(pulse)という意味が含まれています。生の演奏では、音の長さや空間の中での伝達を、より自由に、より多彩に、より個性的に、より生き生きと表現できます。録音スタジオ、コンサートホール、屋外のステージ、場所によって演奏は変わり、それぞれに理由があります。

(終)

(2016年11月 電話インタビューにて。 
取材・文: 焦元溥  訳: 森岡 葉)


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