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没後25年を思う──蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」+ 雑感色々(その5・最終回) 没後25年を思う──蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」+ 雑感色々(その5・最終回)

(2011年 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 プログラム冊子に掲載)
「武満徹とJ.S.バッハの間」

 武満徹(1930-96)の生誕80年を記念する連載「武満徹と〇〇の間」。今回が最終回となる。最後にふさわしく、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とも縁の深い作曲家J.S.バッハ(1685-1750)に光を当てたい。

 武満徹という作曲家にはどのようなイメージがあるだろうか?かつて第二次世界大戦後の日本の作曲界には、保守派・民族派・前衛派の区別があるといわれていた。武満の創作の歴史はそのまま戦後日本の歩みと重なるのだが、その武満はどこに位置していたのか。当時の記事を遡ってみると、青少年時代のほんの僅かな期間は民族派、その後は時々保守派に分類されている。分かりやすい地図を示すためのこうした分類は、実際の音楽を聴くとしっくりこないことがある。民族派に分類される時代でも武満の作品には当時の前衛であったフランスの作曲家メシアン(1908-1992)の影響が見られ、前衛派と言われた時代にギター作品《フォリオス》でバッハの《マタイ受難曲》からコラールを引用し、保守派と言われることもあった時代に異業種であるポップスの歌手・石川セリによるCDを制作したりした。こうして例を並べると突飛なように聞こえるかもしれないが、音楽作品ではそうした多種多様な影響が自然な形で武満色に染まっているのだ。そうした武満を評論家の吉田秀和は、「茫漠たるよさ」と表現した。武満が30歳、1960年の記事だ。

 茫漠と言われるような、広くてとりとめのない才能を持っていた武満は、実は作曲の際にある“儀式”を行っていることを、1980年代になって次のように明かした。
  「作曲に入る時は精進潔斎をして、みそぎをちゃんとやる、というような気持ちがあるんだよね。酒飲んだ次の日なんてやる気がしないし。バッハの《マタイ受難曲》のピアノ版を全曲弾いてからでないと次の仕事にはいらないというジンクスができちゃって(笑)」。
  武満がいつからこの“儀式”を始めたのか。その正確な時期はわからない。使用していた楽譜は、結婚前に合唱団に所属していた浅香夫人のもので、武満が新たに購入したものではなかった。

 バッハの音楽を聴いて武満の音楽を想起する人は少ないかもしれない。バッハの頑強な構造をもつ音楽と比べ、武満の音楽はひとつひとつの音色が重んじられて繊細だからだ。しかし、武満の音楽を聴いたときにバッハと共通する感情を抱くことがあるだろう。たとえその曲にバッハが引用されていなくても、また武満がバッハを弾くという秘儀を知らなくても通じるものである。それは敬虔な祈りの感情というべきものだ。
  武満の作風は、時代につれて変わっていった。それは武満の愛した画家ルドンが黒の時代から色彩の時代へと変わったように、武満の音楽は禁欲的で厳しい響きの時代から官能的で色彩豊かな響きをもつ時代へと変化していった。そうした変化は、若い頃に体が丈夫でなかったことや戦後の貧しい時代を経て病を克服し、音楽を通して多くの音楽家や芸術家と交友して充実した仕事を重ねていったことと無関係ではないだろう。その創作の根底に、バッハがあり続けたのだ。

 武満は、自身の創作だけではく親善大使のように世界へ頻繁に出かけ、日本の音楽や文化を伝えるとともに、より多くの人と同時代の文化や今日の音楽について語り合う機会をつくることに尽力した。“武満がいなくて寂しい”との声がいまだに消えないほど、その存在は刺激と魅力に溢れている。武満の一生は、音楽とともにあり、音楽に捧げられていたといってよい。そして、今から15年前の1996年2月20日に天に召された。バッハと同じく、65歳の生涯だった。

小野 光子(音楽学)


武満さんが作曲する前にJ.S.バッハの《マタイ受難曲》を聴く(弾く)、というのは、私も知っていました。結構有名なことかもしれません。
もっともこうしてバッハを尊敬する作曲家は少なくありません。モーツァルトやベートーヴェンは、彼らより100年近く前の、半ば忘れかけられたバッハを“発見”し、その対位法の奥義を後年になって学び、体得しました。メンデルスゾーンやショパンもそうです。バッハがあって、彼らのような大作曲家はさらなる深化を遂げたのだと思います。

また、武満さんのように“儀式”としてバッハを…というと、私は現代最高のピアニストのひとり、アンドラーシュ・シフを思い浮かべます。シフは練習を始めるとき、必ずバッハの曲を弾きます。それは《インヴェンション》や《平均律クラヴィーア曲集》の数曲であったり、《パルティータ》や《イギリス組曲》、または《ゴルトベルク変奏曲》の一部等々…。
このことは非常に重要な習慣だと彼は語っていましたし、音楽的な思考とともに、小野さんが武満さんのことで書いているように「敬虔な祈り」の感情を呼び起こすのに必要なのだと思います。
(そういえば、ドイツの大ピアニスト、ヴィルヘルム・バックハウスも「バッハを日々のパン(糧)とせよ」と言っていましたね)

そう、「祈り」。
音楽に限りませんが、何をするにも作るにも、「祈り」がなければそれは無為なことになるのではないでしょうか?たとえば遊び戯れるような軽い音楽を書くのにも、 「子どもの如く、純真に、そうありたい」といった祈りがあるからこそ、聴く私たちは心が浮き立ち楽しくなるわけです。(もちろんそれだけではないとはいえ。)
対象と対峙し、伝えたいものには様々なものがあります。何も、どれもこれも重苦しく頭をたれるような種の祈りだけでなく。

ところで、私が武満徹さんと会話したのはたった一度。
1992年、東京芸術劇場でサイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団がメシアン《トゥランガリラ交響曲》を演奏した際の、終演後のロビーです。私は上司に「武満さんはラトルと親しいから、楽屋に案内して」と指示され、武満さんをロビーからバックステージへとお連れしました。その時の武満さんは真赤な顔で興奮しておられ、こんなことを言っていました。
「僕はこんな《トゥランガリラ》聴いたことないよ!少し前、エサ=ペッカ・サロネンがN響を指揮した演奏で、これ以上のものはない、と感激したものだったけど、さらに上があったんだねえ!」と。
実は私もそのサロネン/N響の演奏を聴いており、この日のラトル/バーミンガム市響も客席で聴くことができたので、「私もまったくおんなじ思いです!!」とつい熱くなって返答しますと、「そうか君もか!いや~ホント凄かったよね」と、この後お互いよくわからない感嘆の言葉の応酬をしつつ、廊下を歩いて行きました。

武満徹さんは、実に熱いものを心に持っていた方でした。
素敵な作曲家の没後25年を、ここに改めて深くお祈りいたします。

没後25年を思う ── 蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」 + 雑感色々(その1)

没後25年を思う ── 蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」 + 雑感色々(その2)

没後25年を思う ── 蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」 + 雑感色々(その3)

没後25年を思う ── 蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」 + 雑感色々(その4)

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