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没後25年を思う──蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」+ 雑感色々(その2) 没後25年を思う──蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」+ 雑感色々(その2)

(2010年 フィラデルフィア管弦楽団プログラム冊子に掲載)
「武満徹とストラヴィンスキーの間」

 「ストラヴィンスキーには本当に感謝しています。ストラヴィンスキーがたまたま僕の曲を認めてくれたことでどんなに励まされたかしれない。」

 武満徹がそう語ることについて、まずは二人の作曲家が出会った頃に遡ってみよう。


 1959年(昭和34年)4月5日、日本が皇太子ご成婚で盛り上がっていたあの春に、ストラヴィンスキーが大阪国際フェスティバルの招きで来日した。マスコミを嫌ったストラヴィンスキーは、約1ヵ月の滞在の間、NHK交響楽団による演奏会で自作の《夜鶯の歌》、《ペトルーシュカ》抜萃、《花火》、《火の鳥》を大阪と東京で指揮した以外、対談や座談会は一切断り、記者会見を1回行っただけだった。「京都や奈良などで古い建築を見ること、それから日本の音楽、とくに若い人たちの作品を聴くこと」に関心があると会見で述べた作曲家はその言葉どおり、76歳とは思えないほどエネルギッシュに観光を楽しみ、精力的に日本の作曲家の作品を聴いていった。
 そして耳にとまったのが、武満が1957年に作曲した《弦楽のためのレクイエム》だった。“タケミツに会いましょう”── そういう運びになるとは、武満は想像さえしなかったという。
 武満徹といえば現在の私たちは、日本を、あるいは20世紀を代表する作曲家として知っている。しかし当時28歳の武満は順風満帆とはいえない状況にあった。ストラヴィンスキーが評価した曲も、貧しい上に重い結核を患い、自分の死と向かい合う日々の中で書いたものだった。ようやく病が快復し、遅れを取り戻すかのように作品を発表し始めた矢先、音楽史に名を刻んだ作曲家から目白の椿山荘でのランチに誘われたのだ。


 ストラヴィンスキーと武満は、いったいどんな会話を交わしたのだろう。武満はたくさんのエッセイを書いたが、残念なことにこの会談に触れたものはない。ただ、人から訊かれれば冒頭にあげた言葉のほかに「がちがちにアガってて何も覚えていない」とか、握手したその手が「マシュマロのように柔らかかった」思い出を話してくれるだけだ。来日したストラヴィンスキーの傍らにいた評論家のドナルド・リチーは、記録を残しておいてくれた。ストラヴィンスキーは武満の作品を「この音楽は実にきびしい(インテンス)、全くきびしい。このような、きびしい音楽が、あんな、ひどく小柄な男からうまれるとは」と評価したのだ、と。


 それから12年後の1971年1月、海外での仕事が増えつつあった武満はサンフランシスコにいた。このときストラヴィンスキーの容態がよくないことを知り、「どうしてもお目にかかりたい」と思ったという。そしてハリウッドの自宅を訪ねた。しかし、彼は前日にニューヨークの病院に移った後だった。もし、1日でも早ければ…!運命とはそういうものなのだろうか。ストラヴィンスキーはそのまま、3か月後に帰らぬ人となった。
 武満は自ら企画した音楽祭で若い作曲家に発表の場を設けるなど、国籍を問わず、若い世代に心を配る作曲家だった。そのことを考えると、若い頃にストラヴィンスキーから受けた恩を、武満は別の形で返していたように思えるのである。

小野 光子(音楽学)

*    *    *

ストラヴィンスキーといえば、今年は没後50年でしたね。
この20世紀きっての鬼才・天才作曲家のアニバーサリーも、考えてみれば弊社では何もできなかったなあ…とちょっと後悔。

武満徹さんは、このようにストラヴィンスキーのおかげで世に出た、という話は有名ですが、それにしてもタイプの違う2人ですね。
「カメレオン作曲家」と異名をとったストラヴィンスキーは音の扱いが徹底的に即物的でシャープ。ディアギレフに見いだされ、パリで一世を風靡したバレエ・リュスのために《春の祭典》などの衝撃的バレエ音楽を書いたかと思えば、《プルチネッラ》のように絶妙のセンスで古典に新しい装いをもたらした“新古典主義”的音楽へと移行したり、無調音楽や12音技法による曲、ジャズにも手を出し、これが同じ作曲家の作品?と見まごうように思いのまま。彼は自由奔放なコスモポリタンでした。

“自由”ということでいえば、武満さんも同じだったでしょうし、彼だって非常に抽象的な作品から電子音楽、映画音楽、ポップスまで様々な音楽を描き出しましたが、そこにはいつでも武満さんの内なる目と耳を通した響きがありました。風が吹き、森の匂いが漂ってくるような、そこはかとした空気が、「武満トーン」がありました。誰が聴いても「あっ、武満徹の曲だ」と気づく音色が。そういったあたりは、よく言われるようにドビュッシーに近かったかもしれませんね。

しかし天才は天才を知る。武満さんの音楽について「音楽以前だ」と評していた人たちが周囲にいたわけですから、このストラヴィンスキーの評価によって世評が一変する、というのは素晴らしいことだった反面、昔も今も変わらないわが国の情景…。
そして自分が受けた恩を後世に伝えるというかたちで返す、というのはある程度の年齢に達した私自身もまた、とても強く思うところです。音楽のおかげでどれだけ救われたことがあることか。

ストラヴィンスキーと武満さんのランチ。
武満さんのエッセイには「残念なことにこの会談に触れたものはない」ということですが、興味津々です。いやあ、すごく知りたいですね。

没後25年を思う ── 蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」 + 雑感色々(その1)

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