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スタッフが語る「あの演奏家・思い出エピソード」(5)── ポリーニ編 スタッフが語る「あの演奏家・思い出エピソード」(5)── ポリーニ編

新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言がひとまず解除され、テレワークや巣ごもり生活だった方々も、とりあえずひと段落…。
もちろんこのシンドローム自体は終わってはおらず、まだまだ様々なかたちでの辛抱が必要ではあるのですが、この連載もまずはここでひと区切りとさせていただきましょう。

最終回は、以前「プログラム冊子より…はみ出しページ・特別蔵出し(10)」でも取り上げさせていただきました現代の大ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニのことを。


©Cosimo Filippini

「はみ出し…」の時は、ポリーニさんが演奏したシュトックハウゼンのピアノ曲の譜めくりのことを書きましたが、今度はその他のエピソードを。

現在マエストロ・ポリーニが東京でリサイタルを開く際、主にサントリーホールを使っておりますが、1995年まではその多くが東京文化会館でした(それにも理由があるのですが、それはまた別の機会に)。
私が入社してまだ日の浅い1991年、および93年の来日公演のこと。(ショルティ編の時にも登場いたしました)私の当時の直属上司Sさんはポリーニの担当もしており、当然私はその現場のアシストもしておりました。
マエストロは本番の数日前に、イタリアから空輸した自分のピアノとホールのピアノを弾き比べて使用ピアノを選ぶと同時に、ピアノをステージのどこに置くかを極めて慎重に決めます。
えっ!? 高いお金でピアノを運んできたのに、それを弾かない可能性があるなんてあり得ない??…いやはやその通りなのですが、持ってきたピアノがそのホールにおいて、そしてその時の温度や湿度などの変化による条件下、ベストに響くとは限らない…また、東京文化会館のピアノにもそれまで慣れているからいい思い出もある。とにかく骨折り損となってもお客さんのため、自分のためにベストな演奏を行えるであろうピアノを選ぶ、というのが彼のスタンスなのです。(その費用は弊社負担なのですが。涙)

さて、調律した(調律師もイタリアから連れてきています)2台のピアノが舞台に置いてある中、ホールに現れるやいなやマエストロは必ず手をパン、パンと叩いてホールの響きを確かめます。神社での参拝のようですが、これで多分「うん、これは私の知っているホールの響きだ」と確認して安心したいのでしょう。
そして早速2台のピアノを交互に弾きます。スケールを弾くだけですぐポリーニの響きとわかる明晰クリアな音、タッチ。私なぞは既に感心しきりです。

しかし、ひとあたりそれを繰り返してからの一言が仰天でした。
「誰か、何か弾いてくれないか?私は客席で響きを確かめる。うん、君がやってくれ」と指さした先にいるのは私…。「は?」
「え、えっ、いや、そんな、私?ええっ!?」と狼狽するとSさんが、「大丈夫です、彼、ピアノ弾けますから。じゃあ、よろしくね」
「(そんな~。アンタ鬼か?)」

しかしここで私が腰を引いても現場は困るだけです。えーいままよ、腹くくって「Yes. I’l try.」とぎこちなく片言で言えば、「じゃあ、フォルテのものと、ピアニシモのものを何か弾いてくれ」。
ここでも、彼は自分が出来ることは他人でもワケない、と思っているのです。天才は困ります(汗)。
そんな…と思いながらピアノ椅子に座り、フォルテのものが思いつかず、とりあえず両手でハ長調とか変ホ長調の和音をジャン、ジャン、ジャンと下から上まで鳴らし、次に(暗譜している数少ない中から)バッハ「平均律クラヴィーア曲集」の第1番プレリュードをピアニシモで弾きました。

マエストロは「よし、じゃ、今度はこっちのピアノで!」「フォルテ!」「次はピアノ!」と客席から叫んでいます。私は無我夢中。しばらくして、そうだ、たまたま前の年に友人たちとの発表会で弾いたグリーグ「抒情小品集」の中の「トロルドハウゲンの婚礼の日」ならまだ指が覚えてるな、とそれをフォルテの方にあてることにしました。
それにしてもこんな大ホールでスタインウエイのフルコンサートグランドを鳴らす、というのはこんなに大変なんですね。瞬く間に汗びっしょり。そしてマエストロのいる客席は暗く、私がピアノを弾くステージはこうこうと明るく、暗闇からそこに飛んでくる指示を聞く。この倒錯した状況、なんという妙な気分でしょうか…。

そのうちポリーニさんは調律師と話し合い、どうやらピアノは持ってきた方になりました(確かそうだったと思います)。しかしそこからが長かった。
今度は位置決め。板目一枚分右へ、左へ、そして奥へ、手前へ、と微妙にピアノをズラす毎にマエストロは客席に戻り、再び「フォルテ!」「ピアノ!」。私は延々必死で弾く。その繰り返しです。「ここはいいな」と思ったところにカラーのビニールテープでバミリ(目印)をつけ、延々2時間。しかし「ここはいいな」「ここはダメだ」という境、私にはわかりませんでしたが、はっきりマエストロの中には白黒ついているようで、確信をもってそれを言います。天才的直観としか言いようがありません。
ただ、何回目かもう数えることもしなくなった頃に、マエストロが「どこがいいのだか、忘れてしまったよ」とポツリ。これにはさすがにスタッフ一同失笑です。

ようやく決まった時は嬉しかったですね。これで本番はベストな響きになるでしょうし、私もこれで解放だ(笑)。「グリーグの曲、なかなかナイスな選択だったね」などと言ってごきげんそうでしたし。

ところが大変なオマケがありました。
「このピアノ、日本の湿気のせいか、低音部の鳴りが悪い。(指さしながら)このへんを重点的に、あと1時間くらい、和音を鳴らすだけでいいから弾いてあたためておいてくれ」

え~っ。
マエストロとSさんはさっさとホールを後にし、私はガンガンと「叩き」仕事で居残りとなった次第でありました…。

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