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マウリツィオ・ポリーニの訃報に寄せて(その3/附録)── スタッフたちが語るポリーニ マウリツィオ・ポリーニの訃報に寄せて(その3/附録)── スタッフたちが語るポリーニ

ポリーニの最後の来日であった2018年の公演プログラム冊子に掲載した、彼の演奏や舞台裏などに接してきたスタッフたちの会話を、ここに再掲させていただきます。

(※この会話自体は架空のものですが、エピソード類は実際にあったことです)

「鋭敏な神経と、そこからくるこだわり」

C助:
A男さんはKAJIMOTOにいて、80年代からずっとポリーニの演奏を聴いてきているのですよね?(当時の名称は梶本音楽事務所)

A男:
1989年からだな。初めてポリーニの実演に触れたのは1986年、NHKホールでやった「青少年のためのコンサート」…僕はまだ学生だった。
入社した1989年からはスタッフとしてずっと聴いてるよ。

B子:
A男くんは当時のポリーニの担当者だったSさんのアシスタントだったものね。その頃のポリーニは今と違う?

A:
全然変わらないところもあるし、随分変わったところもある。演奏より言動の面でね。

C:
どんなところですか?

A:
今でもそうだといえばそうだけど、異様に神経質だった。ヨーロッパから日本に来るときのジェット・ラグがひどく、ホテルの部屋の窓という窓に目張りをして真っ暗にする、なんてこともよくしていたよ。それでも眠れなくて体調を崩して──眠れないのは辛いよね──公演を延期するとかキャンセルするなんてことも、90年代のあたまくらいまで何度かあったな。

B:
あったねー。大変だったな…。私はポリーニのピアノの完璧性を思うとき、やっぱり神経があそこまで鋭敏だからこそのあの完璧なピアニズムだと思うし、反面、そんな神経をもっていたら日常生活では常人にない苦労があるだろうな、と今でも感じるもの。そうなるのもある意味仕方ないような気もする。

C:
いやー、自分のような人間には想像もつきませんが、大変ですね。

B:
実際に弾くピアノを決めたり、そのピアノをステージのどこに置くかとか、尋常じゃない手間と時間をかけてたよね。

A:
懐かしいな。最近は「ある程度」になって、そんなに膨大な時間はかけてないみたいだけれど、あの頃は大変だった。
自分のピアノをミラノから運んでくるのだけど、それを本番に弾くとは限らず、ホール──当時は東京文化会館や昭和女子大学・人見記念講堂── のピアノで過去にベストで弾けた記憶があるからか、全部弾き比べるんだよ、ステージで。結果ホールのピアノを選ぶこともあった。ピアノも生き物、そのときの気候とか、それまでどれだけ弾かれていたかで音が変わっているから、マエストロも「こんなハズじゃない」とイライラしてね。

B:
う~ん。

A:
そうすると今度は、「誰か代わりに弾いてくれ。自分は客席で響きを確かめるから」って言って、なぜか流れで僕が弾くことになったり。

C:
ええっ!?ポリーニ大先生の前で?

A:
恐ろしい話だろ?
それも僕はピアニストでも何でもないのに、「全力のフォルティッシモがしばらく続くような曲と、ピアニッシモでレガートの曲を弾いてくれ」などと頼まれるんだよ。で、その条件に見合わないと怒鳴るんだ。何とか四苦八苦して、弾ける曲がないとひたすら和音だけを色々、全力のフォルテで弾き続けたりもした。そんなこんなで弾くピアノが決まると、今度は位置決め。通常の場所から始めて、ステージの板一枚分前後へ、左右へ、とずらしていくんだ。その都度またさっきのフォルティッシモとピアニッシモの2曲を弾かされて、マエストロは客席でチェック。「ここならよさそう」というところにマークをつけていくのだけど、これを2時間も延々続けてマークがいっぱいになったら、「どこが一番よかったかわからなくなった」なんてさ(笑)。
その時によって随分ヘンな…こんなステージの前方でいいの?なんて所に決まったこともあるよ。

B:
その話、懐かしい。改めて聞くとその音へのこだわり、すごいよね!…

C:
いやー、すごいけど、俺はやりたくないですね。

A:
僕だってやりたくてやってたわけじゃないよ。もっとも最近は誰かにそんなことをさせることもないみたいだし、そこは巨匠、大家の余裕なのかな。

B:
音響のこだわり、といえばノーノの曲。

A:
よく覚えてるね! そうそう、ノーノの「…苦悩に満ちながらも晴朗な波…」という名の曲。これは折に触れて何度か演奏しているけど、ポリーニに献呈された曲で、ステージ上のスピーカーからテープ(CD)音源…ポリーニのピアノの音の録音を電気的にメタモルフォーゼしたものを流し、これと共演する。

B:
この準備の現場、私も見た。1993年の人見記念講堂ね。A男くんたちが手配したプロのサウンド・エンジニアさんとスピーカーの設置位置とか、音量のコントロールとか、これまた音の指向性とか入念にリハーサルしてた。ポリーニはしきりとそのバックの音を大きくしたがって、ピアノの音を包み込むくらいに、って指示してたわね。

A:
バランスが難しくてね。大きすぎるとピアノの音をかき消しちゃうし。でもリハですごくいいバランスポイントがあって、よしこれでOK、誰もこの状態に手を触れないこと、とマエストロに厳命されてから数時後にいよいよ本番だったんだけど、弾き終わったらすごく怒っているんだ。「誰かCDの音量を落としただろう!」って。

B:
それ、満員の聴衆のおかげで思いのほか音を吸われたか、本番のテンションで本人がリハより強力に弾いたかのどちらかでしょ(笑)

A:
そうなんだよ、絶対。それを担当のSさんがユーモア交じりに説明したらさ、「えっ、そうか?」って悔しそうに苦笑してた。

C:
わはは。その話、面白い。
あとA男さん、譜めくりもしたんでしょ?

A:
うっ。それを思い出すと胃が…。
1998年と2005年に演奏したシュトックハウゼンの曲の時ね。前者はピアノ曲Xで、後者はVIIとIX。

B:
でも、あの演奏はすごかったよねー。シェーンベルクやウェーベルンももちろんのこと、シュトックハウゼンはもっと難解で複雑なのに、すごく美しく…といったら語弊があるけど、前衛的なアート作品や映画をみるような心理的インパクトがあった。ラテン系芸術家の天才にかかると、前衛ですら美しい彫刻のように…といった感じで。

C:
そんな作品の譜めくりを…怖すぎる。

A:
天才ってさ、人にもよるだろうけれど、自分ができることは他人にもできる、と思っているフシがあるよね。僕はあんな難しい曲、リハーサルではとても譜面が追えないわけ。で、めくり損なうとマエストロは真っ赤になって「NO-!!」って怒ってね、僕は「頑張ります」って言うしかなかったし、開演までの時間、楽譜を貸してもらって、ホールの方々や同僚の協力と励ましの中、楽屋にこもってひたすらCD聴きながら練習したよ。「これ失敗して、俺、会社はおろか音楽業界追放かもな」などと思い込み、心理的に追い込まれて真っ青になりながら(笑)。うまくいってよかったよ。マエストロから「パーフェクト」って言われて握手されたときのことはさすがに一生忘れない。
これが1998年のサントリーホール。

B:
何度聞いても手に汗握るわ…その話。

A:
まあ、自分のことはともかくね、印象的だったのは──2005年、東京オペラシティコンサートホールでの「ピアノ曲IX」。このときにマエストロは、ある箇所でめくるタイミングが気に入らず、リハ後もステージの隅のピアノで「ここだけもう少しやろう」と、30分くらい執拗に同じところを弾くんだ。何度やっても「速い!」「今度は遅い!」って怒るの。イタリア語で「このタイミングなんだよ」って説明してくれるんだけど、イタリア語わからないし(笑)。でもね、何度もやっているうちに、この一見無機的としか思えない音の運びのなかに、どうやらポリーニは微妙な息遣いによる「歌」、カンタービレを感じているらしい、というのがわかってきて、今度は譜面をよく見るより、ポリーニのピアノの呼吸に集中するようにしたら段々とうまくいくようになってきた。「それ!そこだよ!よし、確実にするため、もう1回」と、そこからまた何度「もう1回」をやったか(汗)。
しかし、間近で天才ポリーニの演奏の核のひとつである、そしてイタリア人芸術家の秘奥といっていいかもしれない「歌う」ことに触れられたのは嬉しかった。

C:
あの一見、とっつきにくそうな現代音楽に「歌」が…

B:
それがポリーニのポリーニたる所以のひとつなのかしらね。

「“伝えたい”からこそのビッグ・プロジェクト」

C:
ポリーニはずっとリサイタル・ツアーで来日してきたわけですけど、1990年代後半から大きなプロジェクトをやり出しますよね。「ブーレーズ・フェスティバル in 東京 1995」から?

A:
あれは、尊敬する先輩で、作曲家&指揮者のピエール・ブーレーズが主宰するプロジェクトに参加した、というかたちだけれど──自分が出演する以外の公演やリハにも積極的に来てたな。でも、そんな盛期のポリーニに1つ大きな変化が。
このフェスティバルのとき、はじめてサントリーホールで本番を弾いたんだよ。

B:
サントリーホールは1986年にオープンしてるのに、95年に初めて?

A:
ポリーニの特徴の1つというか、彼は「革新」が好きなのに、反面とっても「保守的」なところがあるのかな?って当時皆で言ってたことがあるんだ。東京ではずっと東京文化会館や昭和女子大人見記念講堂で弾いて成功体験をしてきたから、どうやら演奏会場を変えたくなかったんじゃないか?って。ところが先輩のブーレーズ指揮ロンドン響との共演ではサントリーホールで協奏曲を弾くことになってるからさ、結果このときがここでのデビューとなった。事情があって、協奏曲は弾けなかったのだけれど。
(*シェーンベルクの小曲をいくつか弾いた)

B:
でも一度やってみたら、以降の来日からはずっとサントリーホールで弾くことになったわけよね。食わず嫌いだったわけか。

A:
まあ、そう言わず(汗)。

C:
さっき譜めくりの話で出た、シュトックハウゼンを弾いた公演。1998年はリサイタル・ツアーだけど、その1公演だけはオール・シュトックハウゼンという、恐ろしい?ミニ・フェスティバルみたいな演奏会だったわけですね。

B:
この時ね、私が感動したのは演奏会そのものもなんだけど、その日に至るまでのこと。このオール・シュトックハウゼン、当初は券売状態が悪かったのよ。来日してそれを聞いたらマエストロ・ポリーニ、怒るだろうなあ…と戦々恐々としていたところ、怒るより失望していて、その後何を言ったかといえば、「私はこの演奏会が完売になるよう、何でもする。新聞の単独インタビューも受けるし、テレビだって出る。それにシュトックハウゼンにつながるようなリストの晩年の作品もプログラムに追加してもいい」って。

A:
この時は僕もビックリした。ポリーニは記者会見でこそ、一方的なくらい自分の音楽観を怒涛のように喋るけど、基本的に人と話すのはあまり得意じゃないから、当時単独インタビューは避ける傾向があったし、テレビなんてとてもとても。
かつては演奏前に楽屋に引きこもって全然出てこないような人だったし、パーティのような場でも、気が付けば隅で一人でタバコ吸っているような感じだし、とにかく「孤高」だったからね。こんなに燃えるように訴えかけてくるマエストロは、少なくとも僕は初めて見た。

B:
そうなのよ。だから私、あのとき、ポリーニ先生は「伝えたい」という熱い思いのために、自分の殻を破ろうとしてる、変わろうとしているのかな?と思った。僭越な言い方だけどね。

C:
でもそうかもしれませんよ。その後、2002年のあの大規模な「ポリーニ・プロジェクト」とか、2012年の「ポリーニ・パースペクティヴ」とか、これは世界規模でもやっているわけじゃないですか。自分の信じるものを幅広いかたちで多くの人に伝えたい!って思いがこういうことにつながっていった気がします。

A:
言うね、青年。

B:
さっきA男くんが言っていた、パーティの時なんかに隅でタバコ吸ってたたずんでいるポリーニ先生。今でも性格的にはそういうところがあるのでしょうけど、1980年代~90年代あたりに、内的なものが随分変わった、というか飛躍したのじゃないかしら。きっと。

A:
それがまた、ソロでのピアノ演奏にもフィードバックしている部分はあるような気がする。ずっと聴いてきて、リストのロ短調ソナタとか、ベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」の演奏の巨大さは、この頃から顕著になってきたんじゃないかなあ。
またバックステージの様子なんかを見ていると、まさにその頃から、マエストロは演奏前も楽屋にはこもらず、舞台袖でぶらぶらしているようになった。

C:
そうなんですか?

B:
あ、でも、だからって気楽には近寄れないわよ。そこは天才の集中の場、オーラが凄いから。それを大切にして最高の演奏をしてもらい、お客様には最高の体験をしてもらうように現場の環境を整える。それが私たちの仕事よね。

(文:KAJIMOTO編集室)

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