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小澤征爾さんの訃報に寄せて 小澤征爾さんの訃報に寄せて

20世紀後半から21世紀にかけて、世界を代表する指揮者の一人として活躍した小澤征爾さんが2/6に逝去されました。88歳でした。

小澤さんは1935年に中国の瀋陽(旧満州の奉天)生まれ。一家で日本に引き揚げた後、名チェリストでもある齋藤秀雄氏について指揮を勉強し、創設初期の桐朋学園短大で多くの仲間たちと音楽を学ぶ中、一念発起して渡欧。スクーターでヨーロッパを巡るという武者修行さながら、1959年にフランスのブザンソン国際コンクールでいきなり日本人初の優勝を果たすという破天荒なエピソードは有名です。その後ヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子となり、1961年にはレナード・バーンスタインの目に止まってニューヨーク・フィルの副指揮者となり、さらに1973年には、ブザンソンのコンクールの折に審査員であり、その後も何かと目をかけてくれたシャルル・ミュンシュの後を継いで名門ボストン交響楽団の音楽監督となるのですから、これだけの歴史的巨匠たちに愛された小澤さんの才能、そして人間としての魅力たるや推して知るべしです。この頃からベルリン・フィルやウィーン・フィルの常連として客演し、後者とはザルツブルク音楽祭でモーツァルトのオペラ《コシ・ファン・トゥッテ》を上演するなど、小澤さんは既に世界の寵児でした。

KAJIMOTO(当時は梶本音楽事務所)にも、1960年代から20世紀が終わる頃まで所属アーティストの中心でいて下さり、弊社にとっての初めてのオーケストラ海外招聘は1975年、小澤さんが音楽監督として率いたサンフランシスコ交響楽団です。その後29年もの間音楽監督を務めたボストン交響楽団も任期中に何度か招聘しましたし、それ以外にも小澤さんがその創設に力を尽くした新日本フィルハーモニー交響楽団、その新日本フィルとの画期的なオペラ・シリーズ、恩師の名を冠したサイトウ・キネン・オーケストラのヨーロッパ・ツアーや、この楽団が主体となって松本で始まるサイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)、水戸室内管弦楽団、そして1998年の長野オリンピック開会式で国内外の名楽団のメンバーたちによる特別編成のオーケストラを指揮し、5大陸の合唱を衛星中継でつないで演奏した「第9」…。小澤さんに協力した数々の仕事はどれも忘れられません。松本では、特に小澤さんが抜群の能力を発揮した近代のオペラから(オネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》やプーランク《ティレジアスの乳房》《カルメル会修道女の対話》など)、その錚々たる歌手陣や演出とともに強烈な印象を受けたことを覚えています。
こうした多くの仕事を一緒にさせていただいたことは、私たちKAJIMOTOのスタッフにとってとても大きな糧であり礎です。もちろん様々な意味で“振り回される”こともありましたが、それは巨大なエネルギーをもった人間が大きなことを成す時に避けては通れないことで、結果としての成就を見るにつけ、振り回されたことを私たちスタッフは誇りに思ったものです。
精密に丹念に磨いたオーケストラの音で、凄まじい集中力と情熱をもってがっちりした手応えを残した実演を思い出し、また録音のディスコグラフィを眺めていても、そこで共演するオーケストラ、ソリスト、歌手たちの顔ぶれのなんと凄いこと。この人たちを友達のように平然と日本に連れてくるオープンな小澤さんは、実に巨大な存在でした。

世界の超一流オーケストラ、オペラハウスに登場し、2002年秋には世界の音楽界の頂点の一つともいえるウィーン国立歌劇場の音楽監督となり、さらに遡って同年元旦のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートまで指揮した小澤さん。西洋音楽が日本に入った150年近く前、この国からこうした存在が登場するとは誰が想像したでしょう?小澤さんは常々「東洋の日本人がなぜ西洋音楽をやるのか?それは可能なのか?僕自身でそれを実験しているんだ」というようなことを言っておられましたが、小澤さんの破格の活動自体、そして後年に力を入れた教育の場から続々と優秀な若手が育って世界に羽ばたいていること、さらにそれらのことが文化としての国交の一つとなっていること、それが一つの答えなのではないかと思います。

現代の音楽界を様々に切り拓き、世界の高みを見せてくれた小澤征爾さんに改めて心から大きな感謝の意を表すとともに、ご冥福をお祈りいたします。

KAJIMOTO

1980年頃。左から小澤さん、ルドルフ・ゼルキン、梶本尚靖(弊社前社長)

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