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2014/06/03 | KAJIMOTO音楽日記

●ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管 来日公演初日を聴いて

いよいよ東京・サントリーホールにお目見えした、ネゼ=セガン&フィラデルフィア管のニューコンビ。
いささか興奮気味の弊社のいちスタッフが、客席で聴いた感想を早速書いてくれました。

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その時は唐突にやってきました―― いや、お客様によっては、もっと前からだよ、いやもっと後だ、いえいえ最初からでしたよ、と言われるかもしれませんが―― 私には突然「フィラデルフィア・サウンド」という今やほとんど固有名詞となっている美麗な音が、尋常でない姿で現れたのは、後半のチャイコフスキー「悲愴交響曲」第1楽章の途中。
まずは例の第2主題、美しき嘆きのカンタービレ。一流だったら、どんなオーケストラだって聴き手を陶酔させるに決まっている箇所ですが、ここでのフィラデルフィア管の弦楽セクションは何か急に吹っ切れたように、ちょっと想像もしたことがない、聴いたことのないような美しさ、豊麗さが出現したのです。ふっくらと豊かであたたかく、それなのに怜悧でもあり、色とりどり。高級な宝石のようでもあり・・・水もしたたる美しさ。。。
そしてそれがさらに確かになったのが、そのあと、すべてのパートがディミヌエンドしていき、名クラリネット奏者リカルド・モラレスが聴こえるか聴こえないかの微細なピアニ・・・・・・ッシモを吹いた後、ドン・リウッツィのすさまじいティンパニの轟音一撃とともに全員が嵐のフォルティッシモに突入してから以降。ここでのネゼ=セガンの指揮・・・集中力も凄かった。演奏の前後にはあんなにフレンドリーでオープンな笑顔を見せているマエストロが、ある1点にすべてのエネルギーを注ぎ込むかの超集中で、音楽の嵐は吹き荒れに吹き荒れます。しかし各パートに飛ばす指示や、コントロールは微細で適格そのものなのです。
ここから、第2楽章の5拍子のダンス、第3楽章の怒涛のスケルツォ、フィナーレの慟哭のアダージョまで、美麗「フィラデルフィア・サウンド」に一切の汚れなし、でした。

しかし「オーケストラの醍醐味を味わって・・・」などという生易しいものではない、この多彩な色をもつ美麗な音はいったい何でしょうか?弊社はフィラデルフィア管を10年ほど前からずっと招聘していますが、その間、間違いなくサウンドの美しさは今回が1番だと思います。

ところで「途中から急に・・・」などという書き方をのっけからしてしまいましたが、もちろんそれまで悪かったわけではなかったのです。ただ豊麗で美しいのは間違いないけど、どこかタイトでドライな感じがするな、と前半は正直思っていたところがありました。
(しかし、諏訪内晶子の弾くチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」のソロは、いつになくアグレッシヴでスリリングなものでした。もちろん崩れたり、ということは全然なくて美しいのですが、ギリギリ一歩寸前まで攻め込む、といいますか、ネゼ=セガン&フィラデルフィア管の強力な音、音楽の強大なエネルギーを受け取り、それを表現として返すにはそれだけの凄まじい緊張感とパワーが必要だった、ということだと思います。見ていて(聴いてて)それは手に汗握るほど伝わってきました。しかしそのソロに対し、オケは対旋律を弾く時でも、キザミで支える時でも音はクッキリとクリアに響き、そのなんとも自発的で雄弁なこと! これぞ“協奏”曲であり、カーテンコールでの両者の清々しい表情は見ていて気持ちがいい・・・というより、こちらも一緒に参加した如くの解放感がありました。。。)

そして後半に入って「悲愴」の序奏でも(ダニエル・マツカワのファゴットは見事だった!)、金管セクションの一部に「えっ!このオケが?」というアクシデントがあったりしたので、その後の「完全なるフィラデルフィア・サウンド」(?)が余計身にしみたのです。

何度も繰り返しになってしまいますが、しかし何者にも替えられない豊麗・美麗なこのオーケストラ・サウンド。自然な顔してなんでこんな音が出るのだろう・・・というわけで聴きながら気付いたのが、中・低域のセクション(弦ならヴィオラ、チェロ、コントラバス。木管ならクラリネット、ファゴット)の地に足のついた響きの充実が支えとなり、または包み込んで高音域の楽器をのびのび奏させている、また(当たり前のことですが)ちゃんと「和声」として響かせている、というのが一つ。
そして、例えば私にとってもう一つ印象的だったのが、「悲愴」第3楽章のあの活気に充ちたスケルツォで、最後になっていくに従ってネゼ=セガンはギアをジワッジワッとアップしていくのですが、そうすると当然どんどん熱狂的になってきます。これが普通の一流程度のオケだと各自技量がある分、皆が皆全開になってしまって爆裂的サウンドになってしまうんじゃないか、と思うところ、フィラデルフィア管は、そうなればなるほど、逆に各自が音響バランスをとろうとする――ブレーキをかける、というのとちょっと違うのですが――全体の音の均衡をとろうとする。金管なんかは明らかに少し控えて全体の調和を重視していました。それが温和な方向に、というのとは違ってあくまで激しくダイナミック、ドラマティックな中でのコントロールであって、どんなに凄まじい嵐のような演奏になっても「音の美感」だけは損なわれない、といった具合です。とことんそういうことが身についているんだな、これが伝統というものか、とこれには感心しきりでした。



マエストロ・ネゼ=セガンのことが最後になってしまいましたが、色々あったフィラデルフィア管に活気を取り戻し、こうした美点を取り戻した原動力は、背は低いのに(失礼!)間違いなくこの才あふれるマエストロにあったんだ、ということが今回よくわかりました。
ものすごいエネルギーの塊りであって、そのエネルギーは実に澄んで明るく、接する人を幸福にしてくれる種類のもののようです。
ちょうど先に書いた、「真のフィラデルフィア・サウンドが目覚めた(?)」時と同期すると私は思っているのですが、それまで結構ムチを振るうようにキューを出していたネゼ=セガンは(そのあたり、ちょっとウルサイな、と思いもしました)、だんだんフレーズの流れだけをラクにしなやかに振るようになっていって、オケの中から流れや呼吸、カンタービレを自然に引き出す、という感じになっていったような気がします。(こちらの気のせいでしょうか?)
これぞオペラを得意とするこの指揮者の本領発揮であり、「悲愴」の第2楽章の5拍子の絶妙の揺れ、第3楽章の圧倒的なダイナミック、フィナーレの綿々と息絶えるまで流れ続ける歌など、(絶妙にコントロールをしながら!)まさに「鞍上人なく、鞍下馬なし」といった状態でした。見ていて実に気持ちのいい、指揮者とオケの関係。
ただ彼のキャラクターゆえか、オケの音色ゆえか、「悲愴」は全体として、見事な「ドラマ」ではあっても、暗い「絶望」には傾かず、純粋な美しさが支配していた、という感触です。これをどう思うかは、受け取り手次第だと思いますが。


いずれにしても、今日のマーラー「巨人」、そして私的には特にモーツァルト「ジュピター」が俄然楽しみになってきました。
このコンビが、新しい「フィラデルフィア管の時代」を開いていく様子を、ぜひ確かめに来ていただき、多くの方々とその喜びを共有できれば嬉しいです。



<ネゼ=セガン指揮 フィラデルフィア管弦楽団 2014年ツアー>

【チケットのお申込みはこちらから】

6月2日 (月) 19:00 開演 サントリーホール(詳細) 終了
  チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35(ヴァイオリン: 諏訪内晶子)
  チャイコフスキー: 交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」

6月3日 (火) 19:00 開演 サントリーホール(詳細)
  モーツァルト: 交響曲第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」
  マーラー: 交響曲第1番 ニ長調 「巨人」

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