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「ピエール・ブーレーズ・フェスティバル in 東京」25周年を迎えて── その思い出(3) 「レポン」への道・後編 「ピエール・ブーレーズ・フェスティバル in 東京」25周年を迎えて── その思い出(3) 「レポン」への道・後編

さて、そうして「レポン」日本初演の準備はどうにかこうにか固まっていきましたが、今度はチケットの売れ行きに大問題が。
フェス全体でも券売に難があった話は初回に書きましたが(もちろんソールドアウトの日もありましたが…)、「レポン」の日は特に悪い。それは考えてみれば無理もありません。多くのお客さまにとっては「現代音楽の初演」。そして慣れ親しんだホールではなく、アクセスも今ひとつの会場。
それを見越して、チケット料金も他公演より安く設定していたのですが、それでも現実は厳しい。

そこで私たちは、この作品初演を自分たちなりにどう咀嚼して広報すればいいか、国立音楽大学にあった音響デザイン科の先生を訪ねて相談に行きました。
ここでは前に登場した野平先生からの説明と大体同じ内容の話を聞くこととなりましたが(それは当然です。悪いのは私共の理解力なのですから…)、1つ収穫がありました。インターネットのことです。
1995年というと、まだインターネットは一般の“普通”の人にはまだ普及が始まったくらいの頃で、事実私も「それ、何ですか?」と聞いたくらいです。恥の上塗りですね。先生も困っていましたが(笑)。
そのとき、「現代音楽の初演だとか、そういうのが好きな方々って、このインターネットなどの先端技術を使っている人が多いんですよ。そういう人たちのサークルみたいなものをいくつか選んで、今度の情報を流しておきますね」というようなことを言ってくれたと思います。もっとも私には具体的に何をどうしてもらったかわからなかったのですが…。先生がチャカチャカそれをするのを見て、深くお礼を言ったことはよく覚えています。
そして、その効果だったのか、広報的なことで新聞・雑誌などに多く取り上げていただいたせいか、未だにわからないのですが、なんと当日は会場前に当日券を求める長蛇の列が!!ちょっと信じられない思いでしたが、とにかく狂喜でした。

そして「レポン」は初演されました。
IRCAMスタッフが音響をコントロールするコンソールや、コンピュータ関係の機材の傍には、興味津々で訪れたブーレーズの盟友、フェス初日のリサイタルを大成功させたポリーニの姿も。

照明を落とし、スポットで照らされた薄明るいステージにブーレーズが登場、拍手を断ち切るように彼の指揮が空をすべり、EICが非常に複雑で無窮動風の音型をしばらく鳴らします。暗い客席でそれに翻弄されるうち、しばらくすると全体は徐々にディミヌエンドし、空間に静けさが広がった次の瞬間、ブーレーズの指揮が大きく宙を一閃!周囲の照明が明るくなり、6人のソリストたちが協奏するとともに(その中には、名手ピエール=ロラン・エマールも)、会場の四方のスピーカーから摩訶不思議な響きが。まるで宇宙空間に放り出されたような神秘的な気分の中、EICの合奏とソリスト、そしてスピーカーから響く彼らの音を分解再構築し変形した音が、ある時は協奏し、ある時はどこからどこまでがナマの音なのか合成された音なのか、区別がつかなくなるのです。

今から考えると、30分強のこの曲、少し長すぎな気もしますが、多くのお客様がその緻密にして鮮烈な音の運動と奔流に圧倒されているのがわかりました。そしてスタッフとしても画期的な時間を提供することができた!と何か「やりきった」気持ちでした。

これも初回に書きましたが、私自身のことで言えば、まだその頃までは近・現代の音楽とはまだ距離があり、ましてや“電子音楽”(←と思い込んでいた)なんてゲームのBGMみたいなもので、そんなのはどうなんだろう?と懐疑的だったのです。
しかし、この「レポン」の準備や本番での体験を通じ、作曲家たちがテクノロジーを音楽に使い始めたのはそういうことじゃない、表現言語のひとつとして、“音色”をさらに増やし、未聞の色彩を表出するためにテクノロジーを利用しているんだ。マーラーが交響曲にそれまでは使われなかった打楽器やらカウベルやらマンドリンを使ったように…とようやく気付くことができました。
これは、振り返ってみれば、確実にこの「ブーレーズ・フェスティバル」のおかげだったと思っています。

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