Martha Argerich

記者たちが振り返る、アルゲリッチ来日55年

世紀の大ピアニストの一人、マルタ・アルゲリッチが1975年に初来日してから、今年で55年。たくさんの人がその魅力あふれる音楽を聴き、それぞれに色んな想いをもったことだろう。この長き時を振り返ってもらい、4人の記者の方々に、アルゲリッチが日本でどう受け取られてきたか、または自身がどう思ってきたかなど、記者ならではの視点で寄稿していただいた。

松本良一(読売新聞社・文化部記者)
須藤 唯哉(毎日新聞社・前学芸部記者 / 現仙台支局次長)
池田 卓夫(音楽ジャーナリスト@いけたく本舗®︎ / 元日本経済新聞社・文化部記者)
石合 力(朝日新聞社・編集委員)

読売新聞に初めてマルタ・アルゲリッチ(1970年までの表記はマルタ・アルゲリッヒ)の名が登場したのは、1968年7月20日付夕刊だった。プロコフィエフとラヴェルのピアノ協奏曲のレコードについて、『27歳の美ぼうのピアニストは……野性的で強靱なダイナミズムが印象的』と記している。

そして69年12月21日付の朝刊に、初来日となる読売新聞社主催「マルタ・アルゲリッヒ ピアノ独奏会」の広告が掲載される。「けん盤のマリア・カラス」という書き出しで始まる宣伝文句では、『輝かしい音色、ダイナミズム、速いパッセージにおける完ぺきなテクニック』が賞賛されている。

初来日のリサイタルは、翌70年1月15、19日に東京文化会館、2月4日に東京厚生年金会館で開かれた。直前の1月13日付夕刊には『奇怪な夢を誘う/野生と叙情―南米生まれ』との見出しで、熱烈なラブコール記事が載った。

『女流のイメージから遠い確固とした技巧と、健康な現代感覚にあふれた幅広い表現力の持ち主といわれ、そのうえ名にしおう美人だ』『女流ならではのデリカシーだけが売り物でなく、卓越した技巧で、ホロビッツに野性味をプラスしたような味と、28歳の若さから来る一種の自家中毒みたいな熱っぽさをただよわせる』と、微に入り細に入り紹介されている。だが、この時点では、筆者はまだ生演奏に接していない。

肝心の演奏会評は1月17日付夕刊で確認できる。見出しは『見事な天才のひらめき』で、J.S.バッハのイギリス組曲第2番、シューマンのピアノ・ソナタ第2番、ショパンのバラード第3番、スケルツォ第2番ほかを弾いたとある。

『稀に見る才能、天才、といった言葉が、なんのためらいもなく彼女にあてはまる』『常に最も純粋な音楽的心の高ぶりを聞き手に起こさずにはおかない』とした上で、その演奏について考察を進める。

評者の丹羽正明は『内からわきおこるインスピレーションの質』に注目する。『技術的レベルの高さ』について『修練を積んだ技術の点でも衆にぬきんでた力を備えながら、率直に自己の音楽を語り出せるワザに、その技術が使われている』と分析し、『一面においてエキサイティングな興奮を与える外形を示しながら、精神の深いところでは聞き手の心に直接語りかけて、安心と満足をもたらす』と書く。

もう一つの特色として言及されているのが『変わり身の早さ』だ。『一つのフレーズが強度の緊張をはらんで頂点に達したその次の瞬間に、一転して軽やかな解放感に身をゆだねてしまうことができる。それは自由奔放ともとれようし、曲想に生き生きとした陰影を加えている』。読めば読むほど、アルゲリッチの変わらぬ音楽的資質の核心が的確に言い表わされていて、半世紀以上前の記事とは思えない。

72年頃から現在の「アルゲリッチ」という表記に変わった後、今日までに彼女に触れた記事は300を超えるが、演奏会の批評記事に見るピアニストの印象はどれも似ている。

『アルゲリッチは作品を綿密に解釈し、そこから音楽をバランスよく丹念に仕上げてゆくタイプではない。むしろ一瞬の閃きと燃焼にすべてを書けると言えばよいであろうか。その切迫感が、さらに彼女の魅力をたかめている』(1984年11月14日付夕刊、小澤征爾指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団と共演した演奏会)

『様式を描き分ける歴史的志向など微塵もなく、どの作品でも、ひたすら〈いま〉の音楽として捉えようとする意志につらぬかれていた』(1994年12月2日付夕刊、ギドン・クレーメルとのデュオ・リサイタル)

これらの評者はいずれも三宅幸夫だが、来日を重ねるにつれて批評すること自体が難しくなってきていることも見て取れる。ピアニストとして世界の頂点に立つアルゲリッチの演奏は、あまりに完成されたものであるがゆえに分析を受け付けない。出来ることは印象を語ることだけなのだ。

最後にアルゲリッチの肉声を紹介した珍しい記事について触れておきたい。彼女に単独インタビューした記事は55年間で2本しかない。注目すべきは2015年6月11日付朝刊に載った大型記事だ。ここでは驚くほど率直な問答が交わされている。

なぜソロ・リサイタルを開かないのかという問いに対して、『なぜやめたのか、自分でもわからない。どうしてなのか……本当に覚えていないの。でも、私はそれまでリサイタルをさんざんやってきたのよ。どうしたらいいかしら?』

最近の生活については、『やることが多すぎるの。弾くのは好きだけど、すべてがトゥー・マッチ。練習もしなくちゃいけないし。私、下手になったかしら? もう引退した方がいいとあなたは思う?』

現在の望みを尋ねられ、『それが自分でもわからない。まず私自身のための時間がほしい。その時間はあとどれくらいあるかわからない。でも、調子はいいのよ。もっと自由に生きたい……それが可能なら』

それから10年がたった今、同じ質問をしたらアルゲリッチは何と答えるだろうか。

松本 良一
読売新聞社・文化部記者


ピアニストのマルタ・アルゲリッチが今年で初来日から55年を迎える。その足跡を、毎日新聞の記事を通してたどりたい。

実は初来日から遡ること5年前の紙面で、アルゲリッチの名前を見つけることができる。1965年3月16日付け朝刊でショパン国際ピアノコンクールの結果が掲載され、中村紘子が4位入賞を果たしたと、4段組みの見出しに写真付きで報じている。その中で「一位はマルタ・アルゲリチさん(アルゼンチン)」と一言だけ触れられている。日本のメディアが我が国の代表である日本人出場者の功績を大きく取り上げるのは当然だが、その後、世界を飛び回り、日本でも半世紀以上にわたって愛され続けているという活躍ぶりを踏まえると、この一言だけの扱いは寂しい。当時はこの優勝者が現代を代表する大ピアニストに変貌を遂げると予感する日本人は少なかったのだろう。

ちなみに、この記事の後ろには、当時29歳だった指揮者の小澤征爾がロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでロンドン交響楽団を指揮し、ベルリオーズの「幻想交響曲」を披露したことが、ベタ記事で伝えられている。

1970年の初来日公演は、同年1月19日付け夕刊文化面の演奏会評で取り上げ、『力強く、女らしさも』との見出しが付けられている。評者は音楽評論家の遠山一行。1月15日に東京文化会館で開かれたリサイタルを聴いている。

冒頭から『評判通り、見事な腕前のピアニストである』と絶賛。プログラムはシューマンのソナタ第2番やラヴェルの「水の戯れ」のほか、ショパンのバラード第3番、マズルカ、スケルツォの第2番を『ソナタの各楽章のように連続してひいた』と伝えている。

音楽の作り方については『男性ピアニストに多かれ少なかれ見られるような、異色の演出や企画のようなものはあまり見られなくて、自分の自然なテンペラメントに従って自由にひきまくっているのである』とした上で、『その本然的な肉体が、あらゆる観念を圧倒してしまうというのだろうか。そういう爽快さは貴重なものである』と評した。今なお聴衆を圧倒する鮮烈な演奏が、当時から健在だったことを連想させる文章だ。遠山は、アルゼンチン生まれの新星の登場を歓迎している。

6年ぶり2度目の来日公演となった76年のリサイタルは、音楽評論家の小石忠男による演奏会評が同年5月28日付夕刊で掲載されている。5月24日に大阪のフェスティバルホールで、シューマンの「幻想小曲集」、ラヴェルの「夜のガスパール」、リストの「ソナタ ロ短調」を聴いている。『大変な難曲ぞろいで、この曲目を見てもピアニストの自信のほどがうかがわれる。事実、アルヘリッチの音と技巧は全く見事なものである』とたたえている。一方で、小石は30代に突入したアルゲリッチの演奏に『成熟した女性の強い自己主張』を感じ取った。最後の段落では『極論をすれば、彼女は西欧の音楽にかつてない本能的、衝動的な手法と楽天的な性格を導入し、新鮮な活力を生み出したが、私はそこに彼女の限界も感じる』と書き添えている。

初来日から5度目の来日公演も、小石が84年11月10日付け夕刊で演奏会評を執筆している。曲目の発表が遅れ、曲順も変更によって当日聴くまで分からなかったことを挙げ、『これは褒められたことではない』とぴしゃり。しかし演奏については『強い自我が示されている。しかし、(中略)今回はさながらひとりごとをつぶやくように内向する場面で表すのがユニークといえる』と、その変化を指摘しながら評価している。

アルゲリッチが記者の取材に応じ、彼女のリアルな声が盛り込まれたインタビュー記事は少ない。2000年12月5日付夕刊では、『(アルゲリッチが)突然、複数の音楽ジャーナリストに会う場に自ら出た』と報じている。95年に亡くなった師匠のミケランジェリを偲び、東京で16年ぶりにリサイタルを再開したタイミングで報道陣の前に姿を現した。

記事ではミケランジェリだけでなく、同じく師匠で2000年に亡くなったグルダについても言及し、『私は自分の演奏を聴くのが大嫌い。でも彼とのレッスンはすべて録音した。彼の演奏を聴きたかったので』と振り返っている。さらに後進の育成についても、自らの見解を示し『若い人の才能を見いだすと面白いし、私を新鮮にし、刺激してくれる』と楽しげに語ったようだ。

直近の主な記事では、24年5月に開かれた別府アルゲリッチ音楽祭の東京公演と、客演した水戸室内管弦楽団の定期演奏会の演奏会評が6月6日付け夕刊に掲載された。音楽評論家の青澤隆明が『なおも先へ行こうとするのだ。円熟には道を譲らず、直観と才気の確信のままに、直截に切り拓いていく』と表現した。

来日公演と同じように、アルゲリッチは半世紀以上にわたって、新聞紙面上に登場し続けてきた。そして、多くの記事で「自由」や「自然」、「天衣無縫」といった言葉が目立つ。名前の表記が「アルゲリチ」や「アルヘリッチ」などと揺らぎながらも、一人のピアニストとして今も昔も変わらずに、未来を見据えて生き生きとした音楽を届けてきたことを、新聞記事は物語っている。(敬称略)

須藤 唯哉
毎日新聞社・前学芸部記者 / 現仙台支局次長


1人の「日本経済新聞」記者とマルタ・アルゲリッチ

マルタ・アルゲリッチは2015年8月に広島、東京で秋山和慶指揮広島交響楽団とベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」を共演し、大きな反響を呼んだ。その縁で同年12月から広響「平和音楽大使」を務める。私は1984年4月から1987年3月まで日本経済新聞社広島支局に記者として勤務、広響の演奏批評で「音楽の友」誌にデビューした。1984年11月1日には広島郵便貯金会館ホール(現上野学園ホール)で何と、アルゲリッチのソロ・リサイタルを聴いた。プログラムは前半がシューマンの「森の情景」「クライスレリアーナ」、後半がドビュッシーの「版画」「映像第2集」とスクリャービンの「ピアノ・ソナタ第5番」だが、「クライスレリアーナ」のあまりの素晴らしさ(今もって最高の演奏)に、他の作品の記憶は吹き飛んでいる。これが私とアルゲリッチの「出会い」だった。

1988年4月から1992年3月までは日経のフランクフルト支局長を務めた。1990年のザルツブルク音楽祭で「アルゲリッチと仲間たち」を聴き、梶本音楽事務所(現kajimoto)で長くアルゲリッチを担当している佐藤正治さんと初めて会った。その翌年だか、ミュンヘン「ピアノの夏」音楽祭ではコンサート直前にアルゲリッチとアレクサンダー・ラヴィノヴィッチ(作曲家&ピアニスト)が決裂、「仲間たち」だけが残った超ローテンションの長時間公演に付き合った。

帰国後の1993年以降、私は日経文化部に異動(1995年以降は編集委員)し、アルゲリッチは正式の取材対象となる。丁度その頃、日経の大分支局長だった平木脇一さん(故人)がピアニストの伊藤京子さんを手伝い、1994年に完成した別府市のビーコンプラザの「フィルハーモニアホール名誉音楽監督」に別府市長がアルゲリッチを招くことに成功。1995年から3年間のプレコンサートを開催した後、1998年に「別府アルゲリッチ音楽祭」を立ち上げた。

私が最初に同音楽祭の大きな記事を書いたのは2002年5月12日付の「日経」日曜版だった。この年はNHK交響楽団音楽監督(現名誉音楽監督)でアルゲリッチの元夫だったシャルル・デュトワが「東京藝術大学別府アルゲリッチ音楽祭特別オーケストラ」を厳しく指導。2025年4月からN響第1コンサートマスターに就く長原幸太(広島出身)が学生コンマスを務め、ラヴェルの協奏曲(両手)を弾いたアルゲリッチも「ファンタスティックなオーケストラと感心した」と拙稿に記されている。

この記事の〝肝〟は次の段落だろう:

『功成り名を遂げた演奏家からは、有名指揮者と共演する、CDを1枚余計につくるといった欲が消える。今のアルゲリッチもひたすら、音楽の力だけを信じている。今年の音楽祭のテーマを「音楽のコミュニケーション」と自ら定め、「現在の世界状況の中で、音楽という人類共通の平和な手段を通じ、1日も早く平和な世界が訪れますように」との一文もプログラムに記した』

同じ2002年の夏。アルゲリッチはデュトワが芸術監督を務めていた札幌市の国際教育音楽祭「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)」にも参加、私は7月26日付の日曜版でその様子を伝えた。何かの拍子にアルゲリッチににらみつけられギョッとしたが、聞けば「ジャーナリストも晩ご飯に誘ったら?」という親切な申し出だった。同じレストランの別のテーブルでイタリアンを食べ、もう1度目が合うと今度は満面の笑み。女王様の不機嫌はただ、空腹のためだったと知った。

2004年のアルゲリッチ音楽祭ではヴァイオリンのレジェンド、イダ・ヘンデル(1928―2020)のインタビュー記事を書いた(6月13日付朝刊)。フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」のリハーサルについて「マルタはまだ、ソナタ形式がわかっていない」といい、地獄の特訓中だった。別府で初めて、アルゲリッチよりも怖い存在に出会った。2006年7月には夕刊のコラム「ドキュメント挑戦」で1か月の連載「響け!わが町にハーモニー」を担当、第1週「音楽祭大国・九州」の第1回大分編でアルゲリッチ音楽祭に焦点を当てた。『女王は今や日本と特別な絆で結ばれ、別府で買い求めたコーヒー豆や入浴剤をブリュッセルで愛用する』と、ちょっと余計なことまで書いている。

2006年の取材は角度を変え、アルゲリッチ音楽祭の売り物の1つ、世界的音楽家がコンサートの合間を縫って行うマスタークラスを記事にした(4月28日付朝刊)。フランスのクラリネット奏者&指揮者のポール・メイエ、ロシアのヴィオラ奏者ユーリ・バシュメット、イタリアで活躍したソプラノ出口正子の指導ぶりを伝えたが、記事中に名を挙げた受講生の何人かは今や日本を代表する演奏家に成長している。

2011年3月11日の東日本大震災直後からアルゲリッチが日本に心を寄せ、支援に力を尽くす姿は同年6月6日付の夕刊に書いた。被災の状況をブリュッセルの自宅のテレビで見て「不思議な、色々な思いの混じり合った、エモーショナルな経験」に突き動かされたアルゲリッチは別府の音楽祭を例年通り決行することを決め、福島の原発事故の影響で来日を躊躇する演奏家たちを自ら説得した。マラソン・コンサートでは地元の少年少女合唱団のピアノ伴奏まで務め、『私は大震災後、日本の人が示した忍耐、気配り、愛のすべてに感謝しただけ』と『恥ずかしそうに語った』と、記事は伝える。

私が日経で最後に書いたアルゲリッチの記事は2014年3月29日アップの電子版に書いた「アルゲリッチとアバド最後の共演〜アマデウスに注ぐ優しいまなざし」だった。指揮者クラウディオ・アバド(1933―2014)の死を受け、1967年から46年間続いた協奏曲共演の録音歴を振り返った。

「アルゲリッチはシャイだから、個別インタビューは難しいけど、立ち話とかは気さくに応じますよ」と伊藤京子さんが言う通り、私も何度か面白い会話を楽しんだ。ある年の懇親会でアルゲリッチの「鉄道オタク」ぶりが明らかとなった時、私が「日本ではそれ、テツ女(鉄=iron)です」と伝えると「あら、アイアン・レディーって、マーガレット・サッチャー(元英国首相)みたいでカッコいいわ」と喜んだ。次にすれ違った瞬間、私が「アイアン・レディー」と叫ぶと、アルゲリッチは満面の笑みで「イエース!」と答えた。何かとても、うれしかった。


池田 卓夫
音楽ジャーナリスト@いけたく本舗®︎ / 元日本経済新聞社・文化部記者

朝日新聞が伝えたアルゲリッチさんの素顔

ー「最も驚いた若手ピアニスト」

1965年のショパン国際ピアノコンクールで優勝したアルゲリッチについて本格的に論じた記事は3年後の68年3月、評論家吉田秀和が書いた「ヨーロッパの若い音楽家たち」だろう。『今度ヨーロッパに来て初めてきいた中でも私が最も驚いたピアニストだが、この人の《音》の独特な激しい表現力は大変なものである。その音で彼女はダイナミックな躍動と、まるで夢の中できくような深くて遠いひろがりを持つ音楽をつくる』

彼女が弾くピアノが持つ独特の魅力を短い文で的確に表現している。

紙面で彼女の生の声が初めて出たのは、70年1月の来日時に開かれた記者会見の記事だろう。『長い黒い髪、黒い瞳、日本に来る飛行機の中で日本人と間違えられたそうだ』との記述が残る。今に続く日本との特別な結びつきにつながるエピソードかもしれない。

会見では、シューマンの人間的な魅力として「自分のなかに閉じこもらず、自分をさらけだしていた。その辺がショパンと違います」と話している。

 
ー「鍵盤の女王」が見せた素顔

今年で25回目となる別府アルゲリッチ音楽祭。コロナ禍の時期を除いて毎年のように来日し、別府を拠点に日本とのつながりを深め、その飾らない素顔が次第に知られるようになっていく。

音楽祭初回の98年12月に開かれた公開レッスンを紹介した記事では、個性を尊重して指導する様子を報じている。「私と感じ方は違うけど、あなたらしくてとてもいいと思うわ」と指導した。受講生は「私らしいところを全部残してサポートしてくれるので、とてもうれしかった」と答えている。公開レッスン後には「やっぱり、教えるにはもっと勉強しなくちゃだめね」とコメントし、周りを驚かせた。

別府は、彼女を取り巻く世界的音楽家たちとの交流と友情の場にもなった。音楽祭には初年からヴァイオリンの名手イヴリー・ギトリスや指揮者・ピアニストのチョン・ミョンフンが登場。チェロのミッシャ・マイスキー、ヴァイオリンのギドン・クレーメルらも常連に名を連ねる。共演の多い堀米ゆず子は「アルゲリッチら、名手と呼ばれる人はみんなオープンマインド。自分を押しつけず、いかに相手に合わせるかということに常に心を砕いている。一緒に演奏する人を幸せにできる人こそが、本当の名人なんですよね」と語っている。

共演者たちへの強い思いもある。昨年亡くなった指揮者小澤征爾とは、欧米だけでなく日本でも共演を重ねた。「お別れ会」では発起人を務めた。追悼メッセージでは「あなたの魂は音楽と共に生きていくことでしょう。あなたと素晴らしい音楽を共有できたことに感謝します。セイジ ありがとう」と述べた。

ー広島とホロコースト、平和への思い

原爆投下から70年の2015年には、広島を訪れた。秋山和慶の指揮で広島交響楽団とベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第1番』を演奏した。筆者とのインタビューでこう語った。

「ホロコースト(ナチスドイツによるユダヤ人らの大量虐殺)も原爆も人類の悲劇です。(中略)『ヒロシマ』が起きたことを否定する人はいませんが、ホロコーストを否定しようとする人もいる。だから両者をともに記憶することが必要だと思います」

彼女の母はユダヤ系移民2世。広島と東京で開いた特別演奏会では、ホロコーストと原爆に関する詩の朗読をはさんだ。

「私は対話を信じますが聞き役に徹するタイプです。中心にいたい人間ではなく、シャイな人間なのです。聴衆の前で弾くことは好きではないし、(本来は)自分の性格になじまない、と思っています」と語った。

神が与えた才能に戸惑う天才少女の気持ちを今も持ち続けているのだと知って驚いた。

このときに広島で彼女が弾いた被爆ピアノがある。「明子さんのピアノ」だ。被爆の傷痕が残るアップライトを弾いた彼女は「このピアノはショパンが好きだったのね。ピアノは覚えているわよ」と語った。その後、ロンドン在住の作曲家藤倉大がピアノ協奏曲第4番「Akiko’s Piano」を作曲し、彼女に献呈したが、20年の初演時にはコロナ禍で来日できず、彼女自身による演奏はまだ実現していない。

その年の11月末には76歳でウィーン・フィルにデビューする「事件」もあった。名門中の名門オケとの共演を長年拒み続けてきたのはなぜなのか。楽屋を訪ねて本人に聞くとこう語った。「これまで演奏しなかったのは、女性がひとりもいないオケだったからです」。

今は女性団員が約1割いる。出演を説得し、当日指揮をしたのは盟友のバレンボイム。 セクハラ被害を受けた人たちがSNSで抗議の声を上げる「#MeToo」運動が広がった年に、ジェンダー平等の大切さを演奏で示す機会になった。アンコールでは、バレンボイムとピアノ連弾で応えた。私は「聴衆のだれもが音楽を語るときに性別など無関係だと実感したはずだ」と書いた。戦争や紛争だけではない、広い意味での「平和」にこだわる彼女の思いだろう。楽友協会ホール全体に広がった幸福感と温かみを今でも思い出す。

石合 力
朝日新聞社・編集委員