YU KOSUGE
Special Interview
ソナタ・シリーズ
Vol.4 「神秘・魅惑」<前半>
小菅優が音に乗せて
「神秘・魅惑」の魅力を語る 〈前半〉
TEXT BY TAKEHIRO YAMANO
PHOTOGRAPHS BY TAKEHIRO GOTO, KAJIMOTO
ピアニスト・小菅優が手がけてきた数々の演奏会シリーズは、いつも聴き手に〈長く余韻を残す、驚きと喜び〉を残してくれる。2023年3月から進行中の《ソナタ・シリーズ》も、期待を裏切ることがないどころか、毎回のテーマが多彩なぶん、予想もしなかった発見に昂奮も増して、いよいよ愉しい。
バロックから現代まで、優れた作曲家たちが〈ソナタ〉という形式に見出した、多彩な可能性とその深まり‥‥。〈ソナタ〉という形を生かし切り、はたまた自在に飛び越えながら、ピアノ表現の豊かな地平を拡げ尽くしていった作曲家たちの想像力を、小菅優は回ごとに定めたテーマの中で、新鮮に響かせてみせる。Vol.1《開花》、Vol.2《夢・幻》、Vol.3《愛・変容》‥‥と美しいテーマに沿って、その選曲もさすがの面白さだ。
人気の名曲もあれば、大作曲家のあまり弾かれない(けれど素晴らしい創意に満ちる)隠れた佳曲、あるいはなかなかチャレンジされない難曲‥‥と、ピアノ好きにはたまらないセレクト。それだけでなく、選曲やその配列にも細やかな心くばりがされており、前後の作品がまるで互いを照らし合うように〈隠れた繋がり〉を浮かび上がらせてくれるから、知っているはずの曲でも意外な貌が見えてきたり、曲を知らずともはっと気づかされたり。
そんな小菅優《ソナタ・シリーズ》も全5回を折り返し、次回・2025年3月で4度目の公演を迎える。テーマは《神秘・魅惑》。さて今回はどんなプログラムなのか‥‥公演を前に、ピアニスト自身がコンセプトや作品について、ピアノを弾きながら親しく語って解説する、という記者懇談会が都内某所で開催された。これが豊かで愉しい時間となったので、その模様をぜひ広く共有させていただきたいと思う。
─ 前回は〈善〉、今回は〈悪〉という危ない(?)挑戦
近しい距離で語らうのにふさわしい、洒落て綺麗な空間にグランドピアノ。──拍手に迎えられて登場した小菅優は、いつもの(ちょっとはにかむような、けれど目の輝きも親しげな)表情で挨拶をして、まずは「子供の頃から〈ソナタ〉が大好きで‥‥」と、《ソナタ・シリーズ》構想のきっかけをあらためて話し始める。「ソナタ形式という枠組みの中で、作曲家たちがどれほど個性を発揮してきたのか、自分にとっても愉しめる、お客様にも愉しんでいただけるプロジェクトにしよう、と思いました」
前回、変奏曲を含むソナタばかりを集めるというユニークな選曲で開催された Vol.3《愛・変容》は、「善悪でいうと〈善〉をテーマとした作品を集めていたのですが、今回の Vol.4《神秘・魅惑》は、どちらかというと〈悪〉ですね。いずれの作品も、単一楽章で書かれています」
スクリャービンのピアノ・ソナタ第9番《黒ミサ》、藤倉大のピアノ・ソナタ(新曲日本初演)、ベルクのピアノ・ソナタ、そしてリストのピアノ・ソナタ ロ短調、という全4曲のプログラム。なるほど〈善〉の眩しさとは一線を画したような作品が並べられている。
「私はこれまでのリサイタルでも〈バロックから年代順に進めてゆく〉という配列を覆そうと試みて来たのですが、今回は特に、出だしからいきなり〈悪〉の世界に連れ込む、という危ない回にしてみようかと(笑)」

2005年カーネギーホールで、翌06年にはザルツブルク音楽祭でそれぞれリサイタル・デビュー。 ドミトリエフ、デュトワ、小澤等の指揮でベルリン響等と共演。10年ザルツブルク音楽祭でポゴレリッチの代役として出演。その後も世界的な活躍を続ける。ベートーヴェンのピアノ付き作品を徐々に取り上げる「ベートーヴェン詣」やピアノ・ソナタに焦点を当てた「ソナタ・シリーズ」等に取り組む。14年に第64回芸術選奨音楽部門 文部科学大臣新人賞、17年に第48回サントリー音楽賞受賞。
─ スクリャービンの神秘、そこに秘められた〈邪悪〉の響き
小菅はピアノの前に座る。すっと呼吸をさだめてから、ロシアの作曲家スクリャービン(1872~1915)のピアノ・ソナタ第9番《黒ミサ》の冒頭を弾き始める。‥‥静かに、柔らかく澄んだハーモニーが下降してゆく、しかしそこには、透明ならぬ光が満たされているような、不思議に神秘的な連打を、ゆっくりと紡いでゆく。
冒頭の数小節を響かせてみせた小菅は、「スクリャービン自身は『これはメロディでも音楽でもなく、音の呪文だ』と語っています。これは彼の晩年の作品ですね(1913年)。私は20代の頃、スクリャービンの初期、ショパンにも通じるようなロマンティックな作品をよく弾いていて、その後で詩曲《炎に向かって》(1914年)を弾いて後期作品を少しかじったのですが、彼は《神秘和声》と呼ばれるものを用いています」
ピアノに向かって、ソナタ第6番(1911年)からの一節など、後期作品の複雑なハーモニーの例を弾いてみせながら、今回演奏するソナタ第9番の冒頭と弾き比べてみせる小菅。その和音に秘められた、古来〈悪魔の音程〉とも呼ばれたトリトヌス(3つの全音を含む音程のこと。その響きの特殊性から、グレゴリオ聖歌など古い時代の音楽では避けられていた)の進行など、「初期の《悪魔的詩曲》(1903年)のような、ちょっとコミカルな悪ではなく、もっと邪悪なものが、このソナタ第9番にはあります。‥‥それと対照的に、第2主題はエクスタシー(法悦)に満ちたものです」と弾いてみて、「これをスクリャービンは〈まどろんでいる聖地〉と呼んでいるのですが、そこにも悪の魔法が漂っている。ですから、お客様にも魔法をかけなければいけません(笑)」
邪悪と法悦の交差が、ぞくぞくするような非日常の幻想へと聴き手を惹きこむこのソナタ、その雰囲気から《黒ミサ》というニックネームがつけられるようになったわけだ。
「スクリャービンに続いて、藤倉大さんのピアノ・ソナタを弾きます。この新作については、後ほどロンドンの藤倉さんと繋いで直接お話を伺いたいと思います」

─ ベルクの神秘–そこに響く官能と悲劇
「コンサートでは休憩の後、まずベルクのピアノ・ソナタを演奏します」と小菅優。楽都ウィーンで活躍したアルバン・ベルク(1885~1935)は、古来の長調・短調といった調性から踏み出して、無調などより大胆な音づくりを開拓していった作曲家のひとり。「今回演奏するピアノ・ソナタ(1907~8年)は、シェーンベルクのもとで作曲を学んでいた彼が、卒業論文のように書いた作品です」と、小菅は冒頭を弾いてみせる。かろうじて調性はあるけれど、その不安げな音はこびやハーモニーは、古典的な世界から遠く離れてゆこうとする、しかし不思議な情感を醸し出すもの。
ベルクは、師のシェーンベルク、同門のウェーベルンと3人で〈新ウィーン楽派〉の作曲家たち、とくくられることも多いが、小菅は「3人の中でも、ベルクは最も感情的な作曲家に思えます」と言う。「このピアノ・ソナタは初期の作品で、中心的な調性はロ短調」と例を弾きながら、「あちこちに後期ロマン派の音楽の匂いがするんですね。クライマックスも、官能的でありながらとても悲劇的で‥‥」と、鋭くつよく輝くような強奏を響かせる。
「ほんとうに情熱的ですが、ここから転調を重ねていって‥‥」と、静穏と神秘が層をなすような結尾を弾きながら、「最終的にはロ短調に戻るわけです」
さらに「今回のコンサートでは、選曲にもうひとつ共通点があって、どの曲も静かに終わるんです。藤倉大さんの曲もそうですし、次にご紹介するリストのソナタもそう。そして、このベルクのソナタがロ短調で終わると、続くリストもロ短調、ということになっているんです」
<後半へつづく>
小菅優 ソナタ・シリーズVol.4 神秘・魅惑
【プログラム】
スクリャービン:ピアノ・ソナタ第9番 「黒ミサ」
藤倉大:ピアノ・ソナタ(長谷川綾子委嘱作品・日本初演)
ベルク:ピアノ・ソナタ op.1
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
【公演日程】 2025年3月28日(金)19:00 紀尾井ホール
https://www.kajimotomusic.com/concerts/yu-kosuge-sonata-series-4/
【他都市公演】
3月20日(木・祝)水戸芸術館
3月23日(日)兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院小ホール
3月25日(火)名古屋 Halle Runde