純粋な人、
響きとかたち

──北村朋幹、リストとの旅


3月にリリースする最新アルバム
「リスト 巡礼の年 全3年」を語る

TEXT BY TAKAAKIRA AOSAWA
PHOTOGRAPHS BY YUKITAKA AMEMIYA

 

 音楽は時を編む。それ自体の現在のうちに、さまざまな時を編み合わせる。
 音楽家がピアノに向かう。静寂を透過して、聞こえてくるのは打ち震えているなにかだ。やがてはピアノに触れた指が、その音楽の筆跡を楽譜に留める。あるいはその指先を伝って、音楽は迸り、溢れ出す。音楽が流れであるのは、生の時間のありようとおなじだ。

 北村朋幹がピアノに向かう。彼のなかで密やかに温められ、深められ、磨き上げられ、歌い継がれていた音楽が、 そうして外気に触れるように、周囲の空気を震わし始める。そのたびごとに後戻りのできない旅であるのは、それが生きるということの本質だからだ。

 フランツ・リストの大冊『巡礼の年』を、北村朋幹は自身にとっての“Real-time”のうちに広げていった。2019年11月にムジカーザを棲家に始めた自主リサイタル・シリーズで、2022年秋のVol.4から “Années de pèlerinage” を一巻ずつ綴って、2023年12月24日のVol.6で『巡礼の年 第3年』を弾きおえた。これと並行して、全曲のレコーディングも行い、彼独自の視点が冴えたカップリングを織りなして、3枚組のアルバムに結実させていた。


「演奏するということはつまり、過去を旅しながら未来を作ることなのかもしれません」と北村朋幹は以前にも記していた。まさしくリストにとって、生々しい感動を留めた20代の若き『旅人のアルバム』を『巡礼の年』の曲集連作へとまとめていく創造の営みは、そのようにして最終的には40年もの歳月を経て、晩年作の『第3年』でのアルバム再訪にいたった。
 ここには、あらゆるかたちの愛がある。愛しい人への、自然への、人造物への、崇高さや宗教的な敬虔さ、なにか壮大なものへの憧れが──。それは生きることへの純粋な愛である。

 ロマン派の作品に色濃い関心を示してきた北村朋幹だが、こうしてリストの『巡礼の年』の大冊に集中して取り組むことは大きな冒険となったはずだ。リストのピアニズムを生き、彼が楽譜に書ききらなかったアイディアをも響きのうえで実現していくことは ──彼はこうした言葉を嫌うかも知れないが── ピアニストとしての表現に大きな実りと響きの奥行を運んだのではないだろうか。3公演で連作を弾いたリサイタルを結んでほどなく話をきいた。

「『巡礼の年』の『第1年 スイス』だけは、ほんとうに20歳ぐらいのときからずっとやりたかった。もちろん『第3年』も20代半ばから好きで、そのくらいになると自分のことも少しずつわかってくるので、『第3年』だったら放っておいてもいつか絶対に弾くレパートリーのひとつだと思っていた」と北村朋幹は言う。「じつは今回の CD も最初は、『第3年』とノーノの『…..苦悩に満ちながらも晴朗な波…』だけにしようと考えていたのです」。

 イタリアの鐘の音で繋がる時代を超えた美しさは、先のリサイタルでも高らかに叶えられていた。リストの後期作といえば、北村朋幹は最晩年の小品5曲を、3作目のCD『黄昏に』でブラームスの第3番とベルクのソナタの間に組んでもいた。「それを録音したのが2015年の12月で、ホールの近くのホテルに泊まって、リストの『第3年』をずっと聴いていたのをよく覚えている」。

──それがここへきて、『巡礼の年』全3年に向かって火がついたのはどういう流れだろう?

「CDに関して言うと、前作のケージが自分にとって、けっこう大きなことだった。プロジェクトとしても、演奏するという意味でも、いろいろな準備と研究をして取り組むということ、コロナ下にあることがそこに重なって、時間をすごくかけることができて。『自分のなかで良いものを選んで取り組む、しかも自然に意図せず』ということが実感できた。だから、その後に、自分の次の核になっていくものが欲しかったし、なにかとても大規模なものに臨みたいと思っていた」

「いちばん大きかったのは2021 年11月の終わりに、朝起きたら日本に帰ることが非常に難しい状況になっていて、いろいろなコンサートをキャンセルせざるを得なくて、めずらしく落ち込んで……。そのときにメシアンの『幼子イエスに注ぐ20のまなざし』と、ショスタコーヴィチの『24のプレリュードとフーガ』という対極的な2作を毎日勉強していました。で、メシアンを弾いているときに、『これはなにかに似ている』と思ったら、リストを弾いているときの生理的な高揚感に近いものがあった。それで、久しぶりにリストを思い出し、『巡礼の年 第1年』を初めて全曲勉強しました」

「その時期が自分のなかで大きな境目になって、なにか大きなものとして取り組んだリストの『第1年』を演奏会で2度弾いた後に、これは録音したいなと思った。自分のなかでリストに対する熱がすごく盛り上がったのを感じたので。これは絶対長くは続かない、この一瞬の燃え上がりをつかまえておきたいと思ったんですよ。もうひとつコロナ下で大きかったのは、時間もできて、ワーグナーのオペラを劇場で観続けたこともある。大規模なものという感覚はそうしたところから僕のなかに入ってきたし、リストもワーグナーに憧れた部分はあったはず」。


 『巡礼の年』の連作は、起点となった『旅人のアルバム』から複雑な経緯を経て編み出された。『第1年スイス』、『第2年イタリア』、後期の『第3年』と歳月や書法のうえでも大きな距離がある。
 そもそもの出発はマリー・ダグーとのスイスの旅で、リスト20代半ばの出来事だった。『第1年 スイス』は『旅人のアルバム』の7曲を改訂し、2曲を追加して1855年に出版。1837年夏から39年秋にかけてのイタリアの旅からのインスピレーションは、『第2年 イタリア』にまとめられて58年に出版をみる。『第3年』の曲の多くは1877年に作曲され、83年に出版された晩年作。かくして『巡礼の年』はリストの人生の歳月に大きく架かる重要な創作となった。

「『旅人のアルバム』から『巡礼の年』に書き直そうとしたときには、やっぱり過去のことになっている。たぶん『旅人のアルバム』のときにあまりにも正直に鮮やかに書いていたから、後々権利を自分で買い戻して出版停止にしたほどで、楽譜をみると変な曲も多い。でも、そのフレッシュネスというのは時間が経った後でも、本人のなかで蘇ってきたんだろうな、というのはわかります」。

──歳月を経るとともに、リストの書法も変わってきている。

「もちろん。それと、19世紀のことだけに、楽器も大きく変わってきますから。だから、僕も当初は時代楽器でレコーディングすることを検討して、いろいろなところに楽器を探しに行った。やはり録音というものは、音楽とともに『音』そのものを記録するジャンルでもあるから、そこは絶対に妥協したくなかった。また、時代楽器がもつ特有の音とある種の『制限』が、自分にその時ならではの表現方法を授けてくれるだろう、と期待もしていた。それが何か所もまわった挙句、結果として現代のベーゼンドルファーの、それも最も大きな部類のモデルという対極にあるものを選んだことに、誰よりも自分自身が驚きました」

「でも、大きな躰をもつ楽器にしかない懐の深さが、轟音ではなくむしろ、広い場所にたった独りでいるような弱音を出すことに向いているとも思う。特に今回3度にわたる録音のたびに運び込んだ1989年製のインペリアルには、最近の楽器からは失われてしまいつつある、独特の木の薫りのようなあたたかみや、楽器が手づくりであることを思い出させるような音や手触りが残っている。もともと時代楽器で自分がやりたかったことが素直にできたというのも驚きだったし、この楽器でリストの一大プロジェクトに取り組むことができたことには、とても満足しています」。

──もしもリストがいま選ぶなら時代楽器ではなく、現代の大型ピアノを採ったと思いますよ。

「それはそうだし、僕もじつは音を足したり、もしリストがこの楽器を知っていたらやっただろうこと、表現方法のうえで必要なことを、わりと自由に取り入れています。リストの特に『スイス』ですごく巧いのは、当時の楽器の枠組み、その制限の表面張力のちょっと上ぐらいを行っている。それもとても音楽的に。当時の人には、たぶん経験したことのないような衝撃的な音に聞こえたと思う。そのことはいまの時代、こんなにうるさい音に囲まれている自分でも想像ができます」。

──リストの20代から70代にわたる創作を辿ることで、改めてどのような人間性を感じましたか?

「リストはけっこう無防備にいろんなことに手を触れる人なんですよね。一個一個のことに素直に圧倒されているし。とくに『スイス』にはそれを感じます。一方、『第3年』を書いた頃の彼は、たいへんな鬱病やアルコール依存をはじめとする、多くの病を抱えていて、『生きている目的が分からない』と言いながらも、自殺を選ぶこともできず、生きものとしてのサイクルが続いていることそれ自体が苦しかった。自らの音楽と世の中の歩調が違うことへの気付きや不満もあるなかで、なにかを生み出していた」。

──リストはなにか優しい感じがする。柔軟というか、素直で、美しいものや壮大なものに対する憧れが純粋にあって……。

「うん、リストはすごく純粋ですよ。あらゆるものに、あまりに簡単に心動かされたり、畏れおののいたり、直接的な影響を受けたりする人で。しかも、詩などの芸術作品を教えてくれたのがマリー・ダグーだから、リストは習っているほうの性格ですよね。早くに親と別れたし、妙に早く社交界に出たから変なこともいろいろ覚えただろうし。ある意味では、自分のアイデンティティをずっと探しつつ、最後まで結局わからなかった人なのかも知れない」

「リストの演奏もきっと無防備なもので、聴衆の熱狂も無邪気に受けとって喜ぶ人でもあったろうし、そういう意味での弱さがあった人だと思う。今回初めてリストという人の人生についてかなり多くのものを読んで、ひとりの人間として感じられるようになったというか……。ほんとうに人のかたちがする。いままでも美しいと感じたり、弾いてみたいと思う曲もあったけれど、そう感じたことはほんとうによかった」

「すごく平たいことを言えば、それこそリストを弾くときには、どれだけ純粋に感動して弾けるかということになってしまうんです、残念ながら(笑)、どれだけ考えたとしても。演奏の準備をしているときは、一個一個のことをかなり丁寧にやらないとリストの曲は成り立たないと思った。そのうえで、本番でどれだけそれをコントロールしないことを自分に許せるかが大きいかな、この作品については」



「レコーディングはまず『第3年』を、2023年1月4日から始めました。とても寒くて、鍵盤が氷のようだった。指にしもやけが出来そうなくらい。録音も冷たい音がしていると思う。3月に『スイス』を録って、春がちょっと感じられてきて。『イタリア』は夏、8月の終わりに録ったので、その流れもすごく良かった。それはたぶん音にちゃんと刻印されている気がします」

「録音を終えていまだに『スイス』に対しての思い入れや愛着はとくに強くて、すごくかけがえのない曲集だと僕は思っています。『イタリア』は、作曲が完璧にうまくいっているし、形式も他の2つの巻とは違う。『スイス』はもう過ぎ去っていくものを書いて書いて、書かずにはいられない、という感じだったと思うんだけど。『イタリア』は“日記”ではなくて“作品”というか、“書き留める”より“書く”という感じですよね。だから、『イタリア』をやるのは挑戦ではあったんです。『ダンテ・ソナタ』に関しては初めて楽譜をみたし、手をつけ始めるまでにすごく時間もかかった。直前の、陶酔的なまでに美しい『ペトラルカのソネット』、原歌曲の詩もほとんど信仰のような愛についてだし、そこで上へ上へと昇華されていったものが、このソナタの冒頭から、もっとも分かりやすいかたちで落下(precipitato)していく。そういうところから興味を拡げていって。いっぽう『第3年』は、あくまで自分だけの感覚だけど、すごく自然に感じてしまうんですよ」。

──こうしてリストに集中して取り組んだことで、なにかご自身のパースペクティヴが変わったところはありますか?

「ひとつ言えるのは、自分を閉じて作品に向かわないというか、けっこう無防御に作品に対して向かってしまうやりかたで、たぶん僕はその要素がすごく強いと思う。自分はそういうふうに音楽を始めたのだし、音楽をすることの喜びとか言うと短絡的だけど(笑)、そういうものはなんか、びっくりするぐらいに直接的に蘇ってきましたよね、自分のなかで。もちろん、これをやる前までも音楽はすごく楽しかったけど、でも楽しみの質はやっぱり違うだろうし。  
 そういう意味では自分の鎧みたいなもの、ここ数年着ていたものを気づいたら脱いでいたような部分は、この曲集を弾いているときに限ってはあったのかなと思う」。


リスト 巡礼の年 全3年
北村朋幹 ピアノ

2024年3月6日(水)発売
¥6,600(消費税込)
レーベル : フォンテック
品番 : FOCD9900/2(3 SACD)

Disc 1
リスト : 巡礼の年 第1年「スイス」S.160
グリーグ : 抒情小曲集 より

Disc 2
ドビュッシー : 夜想曲
リスト : 巡礼の年 第2年「イタリア」S.161

Disc 3
ワーグナー/リスト : 「夕星の歌」(歌劇「タンホイザー」より)S.444
ノーノ : …..苦悩に満ちながらも晴朗な波…
リスト : 巡礼の年 第3年 S.163

収録 : 2023年1月4・5日、3月7-9日、8月28-30日
所沢市⺠文化センター ミューズ キューブホール

唯一無二の内容で、リリースごとに大きな注目を集める北村朋幹のCD。第76回芸術祭賞を受賞したケージに続くは、リスト最大のピアノ作品「巡礼の年」です。 約半世紀に及ぶ作曲・推敲を経て完成した、3 巻からなるこの作品。さすらい人・巡礼者が自らの場 所を求めて彷徨する―ロマン主義の主たる概念を反映する第1年<スイス>、第2年<イタリア>。 僧籍に入り宗教的な心情を湛えながらも、⻩昏へ向かう心身と音楽史を転換する新しい波の相剋―引 き裂かれた精神による傑作<第3年>。北村は詩的想念に満ちた感性を通し、周縁を彩る諸作ととも に深山幽谷へ進みます。ポリーニが奏したいくつもの音素材と同時に演奏する「ノーノ …..苦悩に満ちながらも晴朗な波…」 も必聴です。(発売元)

北村朋幹(ピアノ)/リスト 巡礼の年 全3年 Tomoki Kitamura, piano/Liszt Années de pèlerinage