SIR
ANTONIO
PAPPANO
INTERVIEW
サー・アントニオ・パッパーノに聞く
ロンドン交響楽団の魅力
「LSOは 長い歳月をかけ 磨き抜かれた 名人集団です」
──パッパーノは語る
TEXT BY TAKUO IKEDA
PHOTOGRAPHS BY YUKI TSUNESUMI
サー・アントニオ・パッパーノは1959年、イングランド東部のエセックス州エピングで生まれた。両親はイタリアのカステルフランコ・ヴェネトから前年に移住してきたイタリア人。一家は13歳で米コネチカット州へ移住、アントニオ少年は「アンソニー」と改名させられた。1988年の独バイロイト音楽祭を私が訪れた際、ダニエル・バレンボイム(1942- )のアシスタントの1人として載っていたプログラムの表記もアンソニーだった。
「アメリカで困らないように、という両親の思いはわかるのですが、息子にしてみれば〝おばか〟(筆者註:本当に「stupid」の語を言い放った)な話で、指揮者として一本立ちした時点でアントニオに戻しました」
と、かつて本人から聞いた。
21歳でニューヨーク・シティ・オペラ(現在は閉鎖)の稽古ピアニストに雇われて以来、パッパーノの軸足は一貫して歌劇場に置かれ、2002年から2024年の長きにわたって君臨したロンドン・コヴェントガーデンの英国ロイヤルオペラ(ROH)の音楽監督で1つの頂点を極めた。それだけに2024年の日本ツアーを花道にROHを去り、同年9月からロンドン交響楽団(LSO)首席指揮者に就くとの決定は驚きをもって迎えられた。ROHからLSOへの展開はサー・コリン・デイヴィス(1927-2013)と全く同じ展開で、パッパーノが英国を代表するマエストロに熟した証(あかし)と言っていい。
「サー・サイモン・ラトル(1955- )がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者からLSO音楽監督に転じた2017年の時点では、私を含めた誰もが〝帰郷〟ととらえ、長期政権になると信じていました。サイモンはLSOにふさわしい新たなコンサートホール建設にも奔走しましたが、英国のEU(欧州連合)離脱=ブレグジットを端緒とする様々な混乱に阻まれ、2023年で辞任してしまったのです。この大きな驚きが、私に全く予期していなかった幸運をもたらしました。首席指揮者に就く1年前、2023/24年シーズンから実質シェフの仕事が始まってヨーロッパ域内2回のツアーを率い、就任早々の9月には再び日本を訪れ、首席指揮者のお披露目ツアーに臨みます」
もちろん、オペラの指揮は続ける。
「ROHではバリー・コスキーの演出によるワーグナー《ニーベルングの指環》の新しいツィクルスが進行中です。2023年9月の《ラインの黄金》に続き2025年に《ワルキューレ》、2026年に《ジークフリート》、2027年に《神々の黄昏》と、年に1作ずつ初演していきます。6~7月の日本ツアーで上演した《リゴレット》の演出家、オリヴァー・ミアーズとポンキエッリの《ジョコンダ》を新制作、2005年から音楽監督を務めたローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団とザルツブルク・イースター音楽祭で上演する計画もあります」
LSOとの出会いもオペラだった。
「1996年、ロンドンのアビー・ロード・スタジオでEMI(現ワーナーミュージック)のためにプッチーニの《つばめ》をセッション録音したのが最初です。これを機に、実演でも頻繁に指揮するようになりました。実はLSOにもかつて、フランスのエクサン・プロヴァンス音楽祭でオペラを演奏してきた伝統があり、それを2027年に復活させます。私の夢はLSOをコンサート、オペラ両面のレジデンス(殿堂)とすること。とりわけ演奏会形式のオペラには聴衆ともども音楽に深く集中できるメリットがあり、大好きです。オペラは私の人生そのものですから、縁は切っても切れません。私の人生のコマが1つ進み、焦点がROHからLSOに移っただけであり、新しい職責に新鮮な気持ちで向き合い、喜びとともに働きます」
自他ともに認めるワーカホリック(働き中毒)のパッパーノ、2020年に新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界拡大)が発生、すべての演奏活動がフリーズした。
「私もついに、ストップせざるを得ませんでした。最初の2週間は茫然自失。その後は忍耐と努力とともに自分の音楽を見つめ直し、インターネットを活用した発信などの新しいアイデアをどんどん実行に移していきました」
英国のオーケストラは全体的に多忙、とされる。パッパーノも「良く働くことは確かです」と認める。
「2日間同じ都市に滞在するなら、6公演を平気でこなす美徳? もありますよ!」
ロンドンでは長く、LSOとフィルハーモニア管弦楽団、BBC交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を「5大オーケストラ」と呼んできた。一方でフリーランス奏者が編成に応じ複数の楽団のエキストラをかけ持ちする機会が多く「固有のサウンド・アイデンティティをはぐくみ難い」といった指摘もあるなか、LSOは1904年創立から1911年まで首席を務めたハンス・リヒター(1843-1916)、1912~1914年に君臨したアルトゥール・ニキシュ(1855-1922)らドイツ&オーストリア圏の指揮者の薫陶を受け、1977~1981年にはカール・ベーム(1894-1981)も「会長」を務めた。ドイツ音楽への適性も備えたLSOはロンドンで最も重厚なアンサンブルとサウンドで、一頭地抜けた存在と目されている。
パッパーノもLSOの伝統に一目を置く。
「長い年月を費やして旺盛なエネルギーと個性、強力なモーターに磨きをかけてきた名人(ヴィルトゥオーゾ)集団です。ロンドンのオーケストラの多くが早さ(quick)を売り物にするなか、LSOはじっくり(slow)に徹してきました。たった1人のメンバーの補充でも5~6年、時には7~8年もかけてオーディションを繰り返し、納得のいく人事を極めます。結果、1人1人の音楽家に強い存在感と意味が宿ってきたのです。そうそう、ピエール・モントゥー(1875-1964)が最晩年(筆者註:1961~64年)に首席指揮者を務めた影響は大きく、フランス音楽も得意とするオーケストラですよ」
今回の日本公演でも、メインの交響曲にフランス(サン=サーンスの第3番《オルガン付》)、ドイツ=オーストリア(マーラーの第1番《巨人》)の超名曲が仲良く並ぶ。
「オーケストラのツアーでは(定期会員がいないので)1回券を1度で大量に販売しなくてはならず、選曲は定番志向にならざるを得ません。半面、名曲であればあるほど聴衆の皆さんにも良く知られているので、演奏者は個性と説得力に富んだ解釈を披露する必要があり、実際のハードルは高いのです。私とLSOの今後を占う、チャレンジングなツアーになります」
それぞれの交響曲の違いも語ってもらった。
サン=サーンスは「マーラーよりも古典的ですが、旋律の色彩美にあふれ、オルガンの強烈な音響、ピアノ4手連弾の鮮やかな効果など、たくさんの動きとドラマの洗練があります」。マーラーは「とても静かな自然界の音に始まり、真に近代的なのは最終楽章だけです。しかしながら、ここでの自然とはR.シュトラウスの場合と同じく『私』のフィルターを通したもので、近代人の自我に支配されているのが特徴といえます」
それぞれのプログラムにピアノ協奏曲が組み合わされ、ユジャ・ワンがサン=サーンスの前にはラフマニノフの「第1番」、マーラーの前にはショパンの「第2番」を独奏する。
「ショパンの2番のピアノはオペラのプリマドンナのようですし、ラフマニノフの1番にはショパンの影響が明らかです。ユジャの華麗な外見に惑わされてはいけませんよ!(笑)サンタ・チェチーリア時代から何度も共演を重ねましたが、実に深く掘り下げられた音楽性の持ち主であり、どちらの楽曲でも入念に意見を交わしてきました」
(取材 : 2024年7月)