作曲家の音世界へ
瞬時に連れて行く
高解像度のピアニズム

アレクサンドル・カントロフ
2024ツアーの初日を聴いて


アレクサンドル・カントロフ
2024ツアーの初日を聴いて

TEXT BY ATSUSHI ISHIKAWA (KAJIMOTO)
PHOTOGRAPHS BY  YUKI TSUNESUMI

フランスの若きピアニスト、アレクサンドル・カントロフの日本ツアーが始まりました。彼は27歳。これで4年連続の来日となりますが、2019年にチャイコフスキー国際コンクールで優勝して以来、着実に・・・という以上の躍進を続け、近年でもベルリン・フィルとの共演、覆面審査(?)による名誉あるギルモア・アーティスト賞の受賞など枚挙に暇がありません。
そう、今年のパリ・オリンピックの開会式では雨に濡れながらの演奏も大きな話題となりました。


こうした話題はもちろん、まずはカントロフの演奏が与えるインパクトの凄さには改めて瞠目です。ツアー初日、ミューザ川崎シンフォニーホールでのリサイタルでも、満席に近い聴衆は最初の音が出た瞬間から、いつもそうであるようにあっという間に曲の世界に連れて行かれてしまいました。

東京公演のチラシやWEBサイトに、音楽評論の青澤隆明さんが「アレクサンドル・カントロフは生身の音楽である。ピアノに触れれば、たちまちそれは起こる。ピアノを弾くとか、作品を演奏するのではない。そのまま音楽として生まれるのだ」と書いてくださいましたが、まったくその通りのことが起きるのです。

ところで、この川崎公演の曲目は以下のものでした。

リスト: 巡礼の年第1年「スイス」から オーベルマンの谷
メトネル: ピアノ・ソナタ第1番 へ短調 op.5
ラフマニノフ: ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 op.28
J.S.バッハ(ブラームス編): シャコンヌ
(*11/30(土)のサントリーホール公演と、前半が少し違います)

これらの世界が詩的であったり幻想的であったり・・・いや「的」という言葉が不要なくらい、この4人の曲の「詩」「幻想」の世界の中に、聴いている私はとりこまれてしまいました。それぞれがあたかも山や海のような自然界に私はいました。その内側から、その音世界を創り、支えるとてつもなく超高度な技量のピアニズムを眺めるような奇妙な感覚になるのです。なんというピアノでしょう!森羅万象、もはや自然現象のような。どんなに控え目な言葉を選んだとしても、これはまごうことなき「天才」の技。
カントロフは、曲の間、楽章の間にほとんど休みをいれず、続けて弾くので、ますます聴いている側は元の世界に帰れないのでは、といった錯覚に陥るくらいです。


些か抽象的になりすぎたかもしれません。しかしカントロフのピアノには年々凄みが増しています。美しい音色、超高度な技術、などと書いていてもそれは些細なことにすぎないくらい、およそ努力して身に着けたとは思えない自然なピアノが次々と開陳されていきます。(そういう意味でふと、ギル・シャハムのヴァイオリンを思い出しました。)しかし、彼のピアノには、そこに「魔」的なものを秘めている感じを受けます。和音にしてもポリフォニーにしても、すべての音が聴こえるようなクリアさ・・・今風の言い方で言えば4K放送のような高解像度の音像。そして高音のなまめかしい煌めきや、驀進する低音の轟きを聴いていると、時折怖くなることがあるのです。カントロフ自身が音楽の化身となり、止めどない力が噴出しているような。

リスト「オーベルマンの谷」がまずそうでした。(かつてホロヴィッツが得意としていました曲です。)
続くメトネルのソナタは、ロシア的なモティーフを用いながらも知的な構築をしていくので、ちょっとシューマンのソナタのような感触が。しかしここに、前のリストや後のラフマニノフが使うような音型も耳に入ってきたり、とても面白い曲です。

休憩後のラフマニノフのソナタ。豪放ではあっても、ロシアのピアニストたちが弾くスタイルや感覚とは違い、時折ラヴェルの作品を聴いているような精密、クリアな煌びやかさを感じるのがとても印象的です。そういう意味で、これも冒頭のリストからの照射を感じずにはいられませんでした。ひいては、かつてのバレエがそうだったように、フランスとロシアの文化の親和性を思います。

こうしてカントロフで聴くと、知的な理屈ではなく、プログラム全体の連関や統一がダイレクトに心と身体へ入ってくるのです。

そして最後だけは、一度袖に戻り出直してからの「シャコンヌ」。カントロフ自らのピアノの秘技を全部出し切った演奏で、文字通り全身全霊、祈りの音楽です。中間部で長調に移る時、苦悩の先にほのかに射してきた光。そして再び短調に戻った瞬間の心裂かれるような峻烈な音。これを聴いて心打たれない人がいるでしょうか?なんたるピアノ!スタンディング・オベイションになるのも当然でしょう。

しかしこの曲のあとに弾くアンコールがあり得ると思っていなかった私には、衝撃・・・。これがありましたか!SNSなどでその曲名を目にした方も多いでしょう(なので、敢えて書きません)。カントロフのピアニズムなら、それは納得です。

11/30(土)のサントリーホール公演は残席僅少*。しかしながら、ぜひこのカントロフの驚異のピアノを、出来るだけ多くの方々と分かち合えれば幸いです。

*ご好評につき完売御礼となりました。(11/29更新)