PASCAL ROPHÉ
Special Interview
パスカル・ロフェ
スペシャル・インタビュー
Conductor
PASCAL ROPHÉ
「わたしたちの時代の美を提示できるようでなければならない」
パスカル・ロフェ スペシャル・インタビュー
TEXT BY JUNICHI KONUMA
PHOTOGRAPHS BY KAORI NISHIDA
楽しみだけの音楽だったら短命に終わってしまう
— 今回、サントリーホールサマーフェスティバル2019で、ミカエル・ジャレル作品を中心にしたコンサートの指揮をするための来日ですね。フランス国立ロワール管弦楽団の音楽監督をされていますが、クラシックのマスターピース(傑作)はもちろん、現代の、アクチュアルな作曲家の作品を積極的にとりあげていらっしゃいます。
ベートーヴェンでも現代作品でも区別することなくやってきました。音楽を始めるのが遅かったので、勉強をはじめたとき、ベートーヴェン、ストラヴィンスキー、ブーレーズの音楽に同時に出会いました。その意味では良かったと思っています。大事なのは、コンサートのプログラミングに新しい時代の作品も取り入れて歴史を切り拓いていくこと。そうしないと、クラシック音楽はミュージアムになってしまうでしょうから。

Pascal Rophé, Conductor
パリ国立音楽院卒。1988年、ブザンソン国際コンクール第2位。
ブーレーズ、ロバートソンとともにアンサンブル・アンテルコンタンポランを指揮するなど、現代音楽の分野で長年活躍。レパートリーは現代音楽と18-19世紀の交響楽作品を両方扱うバランス感覚をもっていて、ベートーヴェンからストラヴィンスキー、ブーレーズに至る楽曲を、フランス国立管、フランス放送フィル、フィルハーモニア管、BBC響、スイス・ロマンド管、N響などと演奏している。2014~2022年までフランス国立ロワール管音楽監督。2022年から、クロアチア放送響の音楽監督を務めている。
— ミュージアムだったら、まだ良いと思うんです。日本語で「音楽」というとき、西洋語のmusic/musiqueとすごくニュアンスが違っていて、「楽」という語があるからどうしてもエンタテインメント的なニュアンスが前面にでてきてしまう。
そう、楽しみだけの音楽だったら短命に終わってしまう。より深いところにあるからこその音楽、でしょう。建築を例にするなら、ノートルダム大聖堂やサグラダ・ファミリアと近代建築では違うわけでね。クラシックでもジャズでも、作曲の天才たちがつくった作品に追いつくようなレヴェルでの演奏をしなければ、長くは残っていかない。そうした作品をつくった人たちのものを、私たちが再現していかなくてはならない。ジャズのすぐれたインプロヴィゼーション(即興演奏)は、個人のすぐれたアビリティのなかで完結する。ベートーヴェンを私たちが演奏するときはちょっと違います。演奏がベートーヴェンのアビリティに達するものでなければならない。その意味では、指揮者は、指揮の技術であり芸術を、みずからの能力の最大限のところまで発揮し、作曲家の意図するところを、自分たちがフィルターとなって、じかに音にしていかなくてはいけない。それはまた、目の前にいるオーケストラのレヴェルをすこしでもあげることになります。
— 音楽を始めるのが遅かったというのは……
14歳にフルートを始めました。その前にリコーダーをやったけれど、11歳までゼロ。ロックは聴いたけど、音楽的な知識はゼロでした。リセ(日本の高校に相当する中等教育機関)を卒業して、2年間パリ国立高等音楽院にはいるための準備をしていました。音楽を食べている(eating music)、とでもいうべき生活で。そして、20歳でパリ国立高等音楽院に入ります。ソルフェージュのクラスでは、実にすぐれた人たちがいました。アナリーゼのときにはマーク=アンドレ・ダルバヴィやパスカル・デュサパンなど、現在では第一線で活躍しているような作曲家たちがたくさんいました。自分よりずっと優れた人たちのなかで学ぶことができたわけです。その後、アンサンブル・アンテルコンタンポランに入り、ピエール・ブーレーズのアシスタントとして学ぶようになりました。最初に買ったスコアは、ブーレーズ《ル・マルトー・サン・メートル》と、ベートーヴェン《第九交響曲》、ストラヴィンスキー《春の祭典》だったんですよ。
フランスの音楽教育の特徴は、和声(タテ)や対位法(ヨコ)やフーガをね、あくまで机のうえで、一切ピアノを使わず、音のないところでやるというところ。ドイツではまずピアノが弾けるかを訊いてくるけど、これはフランスの音楽教育の典型的なやり方。聴く力、聴くことの質、が重視されている。インターナル・ヒアリングとでも言うかな。ハーモニーの透明性や細部の透明性がこうして鍛えられる。デュティユーでもミュライユでも、ソルフェージュがすばらしいでしょう?自分の頭のなかで響かせることができる。ドイツとフランス、どっちが優れているかではなくてね、それぞれの違いがあるということを言っておきたいかな、と。
— ロックをやろうという気はなかった(笑)?
なかったなあ。それに、親が赦してくれるような環境じゃなかったし。家には1枚だけレコードがあってね。何だと思います?シャルル・ドゴール大統領の演説(大笑)。まあ、レッド・ツェッペリン、アリス・クーパー、ピンク・フロイド、ディープ・パープル……ロックは好きだったけど、ブーレーズなんかを聴く前だったから……。ジャズはハーモニーがもっと豊かだったりするので、好きですね。でもね、翻ってみてみれば、《春の祭典》はロックですよ。ヴァレーズも、スーパーロックかな。エネルギーが凄いでしょう?20世紀につくられた作品、レパートリーをみてみれば、まあ《春の祭典》やヴァレーズやクセナキスの作品は、結局、ロックに通じるものがあると思う。やっぱりこれらはリンクしているんじゃないかな、と思いますね。ただ、音楽の語法としてはいささか貧しい。ドビュッシーの2小節の中にあるものがロックにはないんです。今は、だからロックを聴いているより、ドビュッシーやヴァーグナーを聴いているほうがいいと思ってはいるんだけど。
わたしはブラームスなど、19世紀の音楽も大好きですよ。好きなんだけど、いまの若い人には20世紀の作品のほうが興味を持ちやすいんじゃないか、と思っています。若い聴き手をどう摑むかというのは重要な課題になっているわけなんだけど、いま挙げたような作曲家の作品を取りあげていくのがいいんじゃないかな。

作品の安定性とエネルギーを組み合わせたプログラミング
— どうやってコンサートのプログラミングをしたらいいと考えていますか?
あるひとつの年代だけをターゲットにするというようなことは考えていなくて、若い人から齢のいった人まで、幅広い年齢層にどう受けとられるかを重要視しています。コンテンポラリーは年一回義務的にやる。それ以外はふつうのクラシック曲でプログラムを組む。そうした考え方ややり方があったりしますよね。音楽祭とかBBCプロムスでとかならいいけれど、シーズンのなかでコンテンポラリーだけ横にのけるのは如何なものか、と思う。わたしは「サーチャー(searcher)」という言い方をするんだけど、探求者、と呼ぶべき作曲家がいます。ベートーヴェンやベルリオーズ、ドビュッシーやブーレーズといった存在ですね。対して、モーツァルトやブルックナーやラヴェルは、それまでの時代にあったものから最高の音楽をつくりあげた人なんだととらえられる。両者はタイプが違うんです。
コンサートのプログラムをつくるとき、後者の作品の安定性と前者の作品のエネルギーの両方を組み込むようにしています。たとえば、モーツァルトの協奏曲で始まるプログラムなら、後半に《春の祭典》を持ってくる。多角的なプログラミングをいつも心がけています。
音楽監督をしていると、どうしても個性がでてしまうので、10年以上ひとつのところにとどまってはいけないなと考えています。ロワール管では6年になりますが、任期のあいだは、これがわたしの提示するもの、わたしのやりかただ、と示せなくてはならない。もちろん、オーケストラは放送局のオーケストラとか、国などによって背景も事情も違う。プロムスなんかも、ある信念をもってやっていたりするでしょう。シュトックハウゼンの《グルッペン》をやったり、あまり聴衆のことを考え過ぎることなく、挑戦的なことをやったりすることだってある。いつもブラームスや《新世界》とかだと先がみえてきてしまいますからね。
あとは、そう、聴き手の好奇心を刺激するようなものを提示していかないといけない。ロワール管は定期会員が多いんです。8000人。シニアが多いので、すぐ入れ替わってしまうかもしれない。そんな懸念だってある。いや、だからこそ、カイヤ・サーリアホやデュサパン、ジャレルなど招いて、レジデントとして作曲をしてもらっている。そうすると理事会は当然いろいろ言いますよね。でも、実績として、6年間で会員を15%増やしているんです。いわゆるクラシック・ファンが望んでいるものだけを提供するなら容易です。でも、はじめに言ったように、それでは博物館になってしまう。わたしたちの時代の美を提示できるようでなければならない。
さっき「サーチャー/探求者」ということばをつかったけれど、もうすこし言い換えれば、壁を押した作曲家、とでもなるでしょうか。彼らの音楽はかならずしも心地良いわけではないかもしれない(less comfortable)。みずからがやっていることについて、意識的であるか無意識的であるかはわからないけれども、自他ともに問いをむける。自己言及的(self-referential)である。一歩一歩引き受け、フィードバックしながら、上昇してゆくところがある。
— だから、何度聴いてもおもしろい、発見がある……。作品がいいというだけじゃなくて、聴き手がじぶんを高めていく、という音。それは演奏家も、そうなんでしょうね。
マスターピースの質というのは、そういうものなんですよね。わたしは、オーケストラはとても巨大な楽器ととらえていて、この大きな楽器と一緒に仕事をするのが好きなんです。

社会におけるクラシック音楽の存在
— ところで、これまで、ヨーロッパの作曲家の名がいくつも挙がっていますが、アメリカの作曲家についてはどんなふうに考えていますか?どのように案配されているか、と言い換えてもいいでしょう。この日本だと、これだけアメリカの影響が強いのに、オーケストラのプログラムにあがることはひじょうに少ない。サマーフェスティバルでもほとんどないわけです。ではヨーロッパではどんなふうでしょう?
ヨーロッパはパブリック・マネー=公金が重要な位置を占め、意味をもっている。それが自由を保障してくれるんです。ヨーロッパにはかなりの密度で重要な作曲家がいる。才能の密度が濃いのです。パブリック・マネーが与えられることで自由になる。アメリカは、個人の出資者がいいと思うものしかつくれない。よく放送関係の仕事をするのだけれど、フランス放送フィルにしてもBBC響にしてもSWR響にしても、放送オケは、おもしろいプログラミングがなされています。放送オケではなくても、フランソワ=グザヴィエ・ロトが指揮する例など引くまでもなく、ただクラシック曲をやるだけじゃない。おもしろいことをしているのです。その意味で、アメリカとは違う。日本はじゃあ、これからどうするのか、というのはありますね。
わたしが仕事を始めたとき、コンテンポラリー音楽は閉ざされた世界のなかにあったのです。その頃はコンテンポラリー専門の指揮者とみられていました。その後、サー・サイモン・ラトルがベルリン・フィルで作曲家たちに多くの委嘱をおこない、活動を広げた(同時にお金も使ったわけだけど)。エサ=ペッカ・サロネンやダニエル・バレンボイムも分け隔てなく、クラシックもコンテンポラリーもプログラミングするようになった。私自身にとってはすごく時間がかかったけれども、クラシックとコンテンポラリーをあわせて、先に言ったように、多角的なプログラムをつくって、提示するようにしてきました。そんななかで、例えば今回、ジャレルの協奏曲を弾くルノー・カプソンとは親しいから、ロワール管の定期公演に招いてブルッフの協奏曲をやり、後半にブラームスの交響曲をやったりというプログラムを組んだりする。ちなみに、ルノーはおもしろくて、ソリストとして立ったあと、後半の大曲でヴァイオリンのいちばんうしろにちゃっかり座って、オケ中で弾いたりすることがあるんですよ。お客さんにとってはサプライズですよね(笑)

— 作曲家と社会の関係が、ヨーロッパとアメリカとは違っている、と。
作曲家について、すこし具体的に言うと、1980年代、スティーヴ・ライヒがオーケストラの作品をいくつか書いているでしょう?あくまで個人的な見解ではあるのだけれど、ときどき、ちょっとだけれど、あれってインテリ的テロリズム(un peu terrorisme intelectuel)なのでは、と思ってしまう。50分間、ンカ、ンカ、ンカ、ンカ、というリズムをやっていないといけない。形式としておもしろいし、成功したとはいえる。でも、演奏家にとってどうか。一般的とはいえないし。ジョン・アダムズはオーケストラの書き方が違いますよね。モートン・フェルドマンはすばらしい。ジョン・ケージの《エトセトラ》をやったことがあるけど、複雑だったな。
— ライヒのオーケストラ作品はわたしもあまり好感を抱いていないのです。指揮者がいない《18人の音楽家のための音楽》などは、互いに聴きあうところ、音楽の生成というところで、ひじょうに意味を見出しているのですが。
メカニックなところはあるけれど、ある意味、室内楽的な作品ですよね。ライヒやアダムズはやはり、1970年から80年代の社会を反映している。バーンスタインが1950年代にジャズ、というのも同様で。わたしが20世紀のアメリカの作曲家でおもしろいと思っているのはチャールズ・アイヴズかな。
— 複雑、というか、混沌としてますよね?
アイヴズはね、オカしい。というより一種の狂気でしょ。ルイジ・ノーノにもそういうところがあるけど、とっても大きなヴィジョンをもってる。近年でおもしろいなとおもったのは、ドゥダメルがロサンゼルス・フィルを指揮したティンパニ協奏曲があって……名前が想いだせない……ええと……ジョゼフ・ペレイラ(Joseph Pereira)!《Thresholds》という作品で、ぜんぜんアメリカっぽくない。というか、アメリカを越えていましたね。

20世紀と21世紀の音楽
— もう21世紀も20年近く経ってしまったけれど、20世紀と21世紀の音楽が違うところはどこだと考えますか?
ポスト・ダルムシュタット世代というべき今60~65歳くらいの作曲家は、1960-65年のドグマから解放され、より自由なかたちで音楽に向き合えるようになりました。解き放たれた。自由になった。それが20世紀の終わりでしょう。いまの40代はコンピュータのおかげでもっと自由になっていい世代です。でも逆に、コンピュータを使うことがまた制約になってもいる。そんな議論をデュサパン、サーリアホ、ジャレルなんかとしています。コンピュータではじめから作曲することについて、同世代の作曲家たちもわたしも、危惧しているんです。紙とペンをつかわないということが、限界をつくってしまっている。60代くらいの人たちは、紙に書いたものをコンピュータにいれて、となる。はじめからコンピュータでやると、これはできるけどこれはできない、というところから入ってしまう。先のフランスの音楽教育のはなしではないけれど、まず、何もないところで、アタマのなかで音を組みたてるところから、が大切なのだと思いますね。それから、若い作曲家が自分の書いた作品を送ってきてくれたりするわけです。初演してほしい、と。最近は電子音の音源が一緒に送られてくることがある。それは絶対にやめてほしいですね。
— フランスではあまりないのかもしれませんが、イギリスなどでは、「ポスト・クラシカル」というような動向がありますね。ミニマル・ミュージックからコンピュータをとりいれて、というような、「コンテンポラリー」をすっとばして、心地良い響きをつくる、というような。
あぁ、あれは興味ないなあ。全然歴史性がないでしょう?直前の過去に起こったことをどう忘れられるんだ、と思いますね。
— 今のはわざとむけた問いだったのですが、そうした音楽をつくり、また好む傾向というのは、いまいわれた「非歴史性」とかかわっていると思っているのです。そして、それはけっして音楽だけではなく、芸術全般、昨今の政治状況もおなじように、歴史性を忘却しているところでつながっているのではないか。それを危惧しているのですけれども。
その問い掛けは、わたしたちにとって、何が大事かを気づかせてくれますね。地球のために戦う。地球を守るために、木を植え、音楽を奏で、楽しみ、芸術にふれる。こういう時代だからこそ大事なんです。政治家たちはよく、お金がないから文化予算を削るというけれども、かつてチャーチルが有名な言葉をのこしました。当時、戦争のために芸術文化のお金をまわす、そういう政策がなされようとしていた。チャーチルは言ったんです、だったら、何のために戦うのか?、とね。
大切なのは人間存在でしょう?芸術、文化、美、それからエコロジーが大切なんですよ。わたしたちが正しいんだというのをみせつけるために戦っていかなくてはならない。ビジネスよりもビューティーのほうが大切なんです。だから、この戦いはやめるわけにはいかない。
日本にはあまりないけれど、ヨーロッパではテロが頻発し、若者の自爆テロなど悲惨なことがおこっている。こんなときだからこそ、5歳の子にスマホを与えるのではなく、美しいものをみせるべきなんじゃないか?それはベートーヴェンであるかもしれないし、ノートルダム大聖堂かもしれない、そういう過去の歴史上の天才がつくったものを、みせていかなくてはいけません。
— 音楽はいま、どこにでもある。だけど、コンサートで、刻々と消えてゆく音・音楽にふれることがまた大切になる。
そう、だから特別なんです。コンサートホールでは3000人がMAXだけど、不可欠なものであり、そこには交感がある。代替出来ないもの。スピーカーを通したものは別ものですよね。
— オーケストラにはそれなりに人数がいて、みんな別々の生活をしている。そういう人たちが集まって、ひとつの楽曲を演奏する。それはとても貴重なことでは。
刹那的で、かつエモーショナル、奏でられたらつぎの瞬間にはなくなる、そういう意味で特別でユニークなのが音楽ですよ。美術作品なら、2時間でも眺めていることはできるけれども、コンサートで演奏される音楽はそうはいかない。ずっとフラジャイルな(こわれやすい、もろい)もの。人というのは、そもそも、フラジャイルなものでしょう?ビジネスじゃなくて、ね。
— パスカルさん、指揮者にならなかったら、何をしていたと思いますか?
庭師、かな。ビジネスマンにはなってなかったですよ(笑)。
(取材 : 2019年8月)