KAJIMOTO
70TH
ANNIVERSARY

KAJIMOTO 創業70周年 梶本眞秀インタビュー

先ずは
「コンサートへ行く楽しさ」を取り戻し、
人を感動させるものはなんでもやりたい

KAJIMOTO創業70周年、新たな起業に挑む
“2代目”社長 梶本眞秀インタビュー

TEXT BY TAKUO IKEDA (iketakuhonpo)
PHOTOGRAPHS BY KAORI NISHIDA

「日経ビジネス」誌が「『会社の寿命』は30年」と特集し、
衝撃を与えたのは1983年だった。
40年近くを経た今、短命化はさらに進み20年に近付いている。
日本のクラシック音楽マネジメントの草分け、
KAJIMOTO(旧梶本音楽事務所)が2021年に70周年を迎えること自体、
奇跡なのかもしれない。

梶本尚靖が1951年に大阪で創業し、
40周年の1991年、息子の眞秀が社長職を引き継いだ。
2009年には社名をKAJIMOTOへ変更、
音楽に限らず「人を感動させるものは何でもやる」路線へと急激に業容を変え、
サバイバルに挑む。眞秀社長の話を、とことん聞いてみた。

──トヨタ自動車の源流、豊田自動織機製作所を創業した豊田佐吉は「一代一業」を家訓に遺しました。子孫はこれを忠実に守り、自動車を立ち上げ、現在はIOT(モノのインターネット)の先端を目指しています。私はKAJIMOTOにも、一代一業に近い社風を感じるのですが。

「豊田さんの家訓は初めて知りましたが、素晴らしいですね。世の価値観は刻々変化するとは分かっていたものの昨年、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大に伴い、数多くの演奏会が中止や延期に。前はびっしりと埋まっていた手帳が真っ白、今もスカスカという状態まで一気に体験するとまでは予想もできませんでした。ただ2009年に社名をKAJIMOTOへ変更する際、すでに音楽事務所に限定されない未来を意識していたのは確かです。KAJIMOTOの会社を維持しつつ、中身はどんどん変えていかなければ先が続かないと思いました。

梶本眞秀 Masahide Kajimoto
株式会社KAJIMOTO代表取締役社長

1951年、兵庫出身。1975年、マサチューセッツ州クラーク大学卒業。ポピュラー音楽の仕事に携わった後、梶本音楽事務所入社。1992年、梶本音楽事務所の代表取締役社長に就任。2009年、クラシック音楽界の既成の概念を打ち破り新風を吹き込むべく、アート・ディレクターの佐藤可士和氏とのコラボレーションで、社名を梶本音楽事務所からKAJIMOTOへ変更した。年間を通じて、海外からの数々のトップ・アーティスト、アンサンブル、オーケストラを招聘するとともに、数多くの優れた演奏家を日本国内に加え、海外にも広く紹介している。また、世界最大級のクラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」を全国で展開、2013年より東日本大震災復興支援プロジェクト「アーク・ノヴァ」を実施。2001年、フランス共和国芸術文化勲章オフィシェ授章。2006年、イタリア共和国功労勲章グランデ・ウッフィチャーレ受章。2019年2月、フランス共和国芸術文化勲章コマンドゥール受章。

当時考えていた柱は、

1)本能的に感動できるものだけ手がける
2)日本で“待つ”だけのビジネスから脱する

の2本です。後者に対応するため外国人を社員に雇い、パリと中国(最初に上海、次に北京、今は北京のみ)にオフィスを開きました。元からの社員にも文化に通じ、素晴らしいマネージャーがたくさんいたのですが、音楽の枠を超えたプロジェクト志向への転換は容易ではなく、何人かが異議を唱え、去っていきました」

「成果は確実に表れています。いくつかの例を挙げますと、2019年にはフランスのリヨン国立管弦楽団が中国人作曲家のタン・ドゥン(譚盾)を指揮者に迎え、彼の新作『Buddha Passion(ブッダ・パッション=仏陀の受難)』を携えて回った中国ツアーをパリ、北京、東京の3オフィス共同で制作し、新しいKAJIMOTOを象徴する事業になりました。繊維産業で栄えたリヨンはシルクロードの終点の1つであり、ツアーは敦煌からシルクロードに沿い、北京を目指したのです。『ブッダ・パッション』は中国の仏教、あるいは宗教心全体が文化大革命を境に萎え、人間の生死にも鈍感となった現状を憂い『これは本当の中国ではない。もっと良いところを思い出してほしい』との願いをこめた作品をKAJIMOTOが制作し、フランス経由で中国に持ち込む…。さすがに首都北京では演奏できない曲でしたが。逆に、京劇をヨーロッパに持って行く事業も始めました。

コロナ禍が一服した中国ではKAJIMOTOアーティストのピアニスト、ハオチェン・チャン(张昊辰=2009年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで辻井伸行と第1位を分け合った)の全国数十都市を回る大規模なツアーが北京オフィスの仕切りで進行中です。フランスでは2018年、国際交流基金の依頼によりフィルハーモニー・ド・パリの大規模な『ジャポニスム展』で能、日本舞踊、雅楽、林英哲の和太鼓などの公演を制作しました。資金面では大変でしたが、日本企業の協力で能舞台を設えることもできました。時には東京オフィスの知らないところで北京、パリが独自に動くこともあり、非常に良い展開です」

──お父様から経営を引き継がれたとき、強く意識されたことはありますか?

「外国の大手マネジメントから『これを買え』と押し付けられ『嫌です』と断ると、他のアーティストも回してくれなくなり、よそに持って行かれる──私は、これが嫌でたまりませんでした。先代も朝比奈隆、小澤征爾に目をつけ、高度成長期にベートーヴェンの『第九』交響曲を繰り返し公演するなどで利益こそ上げましたが、父は外国語を話せず、世界のマネジメントのネットワークに入ることもできなかったのです。せっかく才能を発掘した小澤さんが世界に打って出る場面、自社ではなくコロンビア・アーティスツに任せざるを得なかったことには内心、忸怩たる思いがあったでしょう。

転機は1995年、フランスの作曲家で指揮者のピエール・ブーレーズに多面の光を当てる『ピエール・ブーレーズ・フェスティバルin東京』でした。いつも突拍子もないアイデアを思いつく社員の佐藤正治(現プロジェクトアドバイザー)が『費用は6億円かかりますが、入るお金は全く不明です』といい、持ち込んできたのです。何に突き動かされたのか、今だに良くわかりませんが、僕も若かったのか、ほぼ2つ返事で『やってみよう』と答え、父に恐る恐る相談しました。『どうせゼロから始めた会社なんだから、ゼロに戻っても構わない』と父に背中を押され、右も左もわからないまま、色々な人の助けを借りつつ“守りの社長”をかなぐり捨てて、世界のネットワークに食い込むきっかけをつかみました」

──マネジメント業務から撤退すると思った人も、多かったようです。

「社名変更に伴い新しいロゴタイプの制作をお願いしたデザイナー、佐藤可士和さんに『ロゴを変えたら、色々なことが起きますよ』と言われましたが、その通りでした。私のやり方について行けない社員が去り、会社分裂といってもいい状態に。悲しいかな、日本のマネジメント業界は皆が“大将”になりたがり、分裂を繰り返しては会社の力が弱まり、世界の大手と対抗できない性(さが)を抱えてきました。父が無名時代のシャルル・デュトワ、武満徹といった人々に手を差し伸べ、私もヘルベルト・ブロムシュテットやリッカルド・シャイーらが全く売れない時期から長く仕事をしてきたので、マネジメント業務自体の捨て難い魅力は大切にしたいと考えます。ただ1点、『海外大手のエサ場には甘んじないぞ!』とハラをくくり、日本人アーティストでも、音楽芸術に不滅の価値を与えられる人材の面倒を、とことんみることにしました」

「いくつかの好例をお話ししたいと思います。コロナ禍で日本人中心の公演が続くなか、作曲家と聴衆の間の“媒体”に徹して自分を消し、ものすごい演奏をやってのけたピアニストの北村朋幹。ヴァイオリンの辻彩奈も協奏曲のアンコールのためだけに、権代敦彦に新作を委嘱するなど、若手の活躍は目覚ましいです。ベテランでは、指揮者の井上道義。若い頃から鼻っ柱が強く、オーケストラと揉めごとを起こしたりもしましたが、私は『面白い』と感じるのです。新しいことに挑む情熱は全く衰えず、コロナ禍中の代役指揮でも奮闘しています」

──「父と同じことをやるだけだったら、会社は安泰だったかもしれないけど、退屈もしたかもしれない」と漏らされましたが、ご子息で現在の副社長にも、新たな起業を期待されますか?

「息子は私と全く違うタイプです。もともと別の企業に勤め、ベンチャービジネス支援にも関わったりして、KAJIMOTOへ来ました。今は財務を担当していますが、音楽については専門知識を持った社員がたくさんいるので、彼は別の視点から会社を見ています。KAJIMOTOの未来がどうなるのか、かえって楽しみです」

──今までで一番後悔していることは何ですか?

「ペーター・エトヴェシュ作曲の現代オペラ『三姉妹』を日本で上演できなかったことです。カウンターテノール3人が姉妹を演じるアイデア、天児牛大のキャスティングとステージング、山口小夜子の衣装、ケント・ナガノの指揮のすべてが素晴らしく、今までに聴いたことがない音楽でした。日本では依然『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』(ヴェルディ)みたいな名作が繰り返し上演されているのに、フランスはここまで斬新な新作を創造している!と、ぶったまげました。日本公演は幻に終わった代わり、フランスの劇場プロデューサーや企業スポンサーとの関係が深まり、『期待』(シェーンベルク)と『声』(プーランク)(2004年)、『マイ・ウェイ・オブ・ライフ』(武満徹=2005年)、『レ・パラダン』(ラモー=2006年)によるシャトレ座3部作の日本公演につながりました。

『期待』の美術・装置を担当したアーティスト、アンドレ・へラーは『気難しい人。気に入らない相手は3分で追い出す』と聞かされ、日本公演の使用料2千万円の引き下げ交渉に決死の思いで出かけたら意気投合、3分のはずが2時間となり、2千万円はゼロになったのです。『星の王子様』の作者、サン=テグジュペリの言葉『愛し合うということは、同じ方向を向いているということだ』を噛み締めました。ヘラーは若手アーティストを総動員した遊園地スタイルのプロジェクト、『ルナ・ルナ』についても『日本での使用権をキミにあげる』と言ってくれたのですが、力不足でかなえられず、これも後悔といえば後悔です」

──今後の展望をざっくばらんに。

「この1年、『次にどうするか』を考え続けましたが、コロナ禍はまだ進行中であり、確たる答えは出せません。ただ名門オーケストラの定期演奏会をはじめ、ギリギリのところで持ちこたえていた構造が一気に崩れ、変わらざるを得ないところまで追い込まれているとの思いは日増しに強くなってきました。とりあえずは『コンサートに行く楽しさ』を取り戻すことから始めます。その先はここにいる、うちの息子も含めた不思議な仲間たちを信じて、音楽を核に『人を感動させるもの』をあれこれ、映像なども動員して多角的に手がけないと生き残れないでしょう。経営者は商業主義と理想、革新の線引きに悩みながら給料を出して社員を養い、会社を維持していく宿命を背負っていますが、頑固親父だった先代が守銭奴だけではなかった原点も思い起こし、新たな可能性を探っていくつもりです」