EITETSU
HAYASHI

林英哲 演奏活動50周年記念公演
特別インタビュー

Taiko

EITETSU HAYASHI

道なき道を進み、
世界中の聴衆を魅了し続けた50年の軌跡。
未曾有の時代に、
祈りを込めた太鼓が鳴り響く。

太鼓奏者・林英哲インタビュー

TEXT BY HISAE ODASHIMA
PHOTOGRAPHS BY KAORI NISHIDA

独自の奏法と創作で、日本の伝統になかった新しい和太鼓音楽のジャンルを切り拓いてきた林英哲が、今年で芸歴50年を迎える。大太鼓ソロや多種多様な太鼓群を用いたステージは、日本古来の伝統音楽・民俗芸能だと思われていることが多い。しかし、林英哲の登場の前にこうした様式はなく、地元の太鼓好きの人々によって交代しながら即興的に(リレー)演奏される祭り囃子や、能や歌舞伎の「伴奏」としての囃子があるだけだった。道なき道を進み、クラシックやジャズなどとも交信して、世界中の聴衆を魅了してきた50年。「30過ぎたらこんな過酷なことを続けていないと思った」と語る彼が、記念すべき50周年にサントリーホールでのソロ公演を行う。「独奏の宴—絶世の未来へ」と題された一夜限りのパフォーマンスだ。

未曽有の危機的時代に祈りの太鼓を打つ

「クラシックの殿堂であるサントリーホールで太鼓を打つということは、大きな海原に一人で出ていくような感じです。客席がずっと後ろまであって、全方位から見られるという他の会場にはない空間ですから、孤独で大変なことは大変なのですが…あの場でしか感じられない感動があります。どの楽器でもそうですが、特に太鼓はある程度の容量の空間でないと、自分が表現しようとしている太鼓の持つ極小から極大までのナチュラルな音が聞こえないのですが、サントリーホールは音響も日本の会場の中では文句なしで、オーケストラの曲も何度もやらせていただいているので、そういう意味での思い入れもあります」

林英哲(太鼓)
Eitetsu Hayashi,Taiko

11年間のグループ活動後、1982年太鼓独奏者として活動を開始。1984年初の太鼓ソリストとしてカーネギー・ホールにデビューし、2000年にはドイツ・ワルトビューネでベルリン・フィルと共演。ジャンルを超えた世界のアーティストやオーケストラと共演しながら、日本から世界に向けて発信する新しい「太鼓音楽」の創造に取り組み魅力を提示し続け、国内外で活躍のフィールドを広げている。

構成は二部に分かれ、前半「夜明け前」「一人舞」「越境者」「走る黄金の小僧」〜後半「月の光」「七星」「祈夜(きや)」「曙光(しょこう)」というシーン・タイトルが付けられている。

「すべて新しいといえば新しい曲です。今までアンサンブルでやったものをソロでやったり、別のコンサートで独奏したものを入れたりして、それらを全部繋げて様々なシーンを作り、僕の50年を辿るようなものをやろうと思っています。今年で50年が経ってしまったけど、コロナでこんな世の中になってしまって…コンサートは3月ですから東日本大震災から10年になりますし、その後も様々な災害が続いて苦しんでおられる方がたくさんいる。そんなことを考えて、最終的にはいい兆しの光が見えるような構成にしたいと思っています。太鼓を宗教的なものとして捉えるのはアジアや日本独特のものです。ヨーロッパでは宗教音楽というと合唱だったりパイプオルガンだったり、持続的な音でわーっと高みに上っていくようなものを表しますが、アジアでは宗教的な儀式に太鼓が必ず登場して、神様に願いを伝えたり、厄払いしたり、邪悪なものを追い払ったりします。太鼓の打ち手としては、今回のコロナのような人類すべてが巻き込まれるような疫病に対して、厄を払う役目があるように感じているのです。多分、人類の何万年もの歴史の中で何度も何度もこういうことがあって、それを乗り越えて我々の時代があるのだと思います。コロナのこともどこかで乗り越えて、明るい希望を見出したい…という願いを託しました」

50周年の節目を、一人だけで舞台に立つことにも決意があった。

「サントリーホールのような場所で、人様に自分だけを見せていいものかとも思いました。不思議とスタッフは応援してくれて『一人で太鼓を打ち続けていられるのを見ていられるのは、英哲さん以外にいない』と言うのです。誰も助け船を出せないけど、こんな大きな節目だから一人でやってみてはと。美術を学んでいた自分にとっては、太鼓を一人で打つことは画家がアトリエで絵を描く感じと似ていたのです。そういうことも思い出して、ゲストを入れずに一人でやることを決めました」

太鼓奏者としての人生はわけもわからず乗ってしまった船

もともとは美術を学び、グラフィックデザイナーになる夢を抱いていた。

「中・高生の時、アマチュアバンドでドラムをやったりして、打楽器は好きだったけれど、職業としてミュージシャンになりたいと思っていたわけではなくて、当時はグラフィックデザイナーになりたかったのです。実家はお寺でしたが、末っ子で家を継ぐわけではないから好きなことをしていていいと言われ、東京に出てきて美術大学を目指して浪人をしていました。そのような中、1970年に佐渡島で若者を集めたイベントがあり、芸術に興味が有る若い人たちを集めて一緒に過ごそうという企画に参加しました。学生運動が盛んだった時代です。あこがれの横尾忠則さんが参加されるということを聞き、(美術学生としては)横尾さんに会える千載一遇のチャンスだと思って参加したのです」

さまざまな芸術家との出会いと予想を超える世界的成功

「山本寛斎さんや現代音楽家の石井眞木さん、小澤征爾さんなど、その後に仕事をご一緒する方々との出会いも、自分から意図したものではなく運命的なものでした。クリエイティヴなことをしている方々が我々に目をとめて応援しようと言ってくれるのは、不思議なことでしたね」

海外で熱狂的な支持を受けたことのひとつに、太鼓奏者の「打つ姿の美しさ」があった。

「我々が西洋文化をやるときに大変なのは、体型が明らかに違うことです。西洋打楽器をやるときに、勿体ないと思うのは、所作とかフォームが関係ないことで、立ち振る舞いやビジュアルのイメージを作ることで、ひとつの表現が成立します。着物を着て動くということは日本舞踊を通じてやっていましたから、日本人ならではの体型を生かすことは出来ていたと思います。柔道や相撲の土俵入りなどでも、ヨーロッパ体型は手足が長くてバランスが悪くなる。アジア独特の動きをともなうものに関しては、我々のほうが有利です。打つ姿を見て『日本人がこんなにきれいだと思わなかった』と言われました」

始原的で普遍的な太鼓という楽器が表現者としての自分を支え続けてきた

美術への造詣の深さを生かし、マン・レイをテーマにした「万零」、「若冲の翼」(伊藤若冲)、「レオナールわれに羽賜べ」(藤田嗣治)など、画家やヴィジュアリストをテーマにした作品も多く創作した。それらは世界各国で絶賛され、熱狂的な反響を呼んだ。

「もともと美術出身でしたが、太鼓と美術が結びつくことは考えていませんでした。太鼓にはメロディがないし、何か手掛かりが必要だったのです。太鼓は絵でというと墨絵と同じです。油絵のような色彩やタッチではなく、一瞬の筆のさばきのようなもの…墨の濃淡を生かして風景を描いたり、余白のコントラストを意識した作品を作ってみたかった。そんなとき、語呂合わせマン・レイのことが思い浮かびました。『万零』はそこから生まれた作品で、香川県の讃岐で採掘されるサヌカイトという叩くと美しい音のする石を叩いて、異質なものを組み合わせてゼロから極大のものを表す試みをしました。画家で一番好きだったのはゴッホでしたので、ゴッホの37年の生涯と自分の人生を重ねることもありました。ゴッホの絵は社会からなかなか認められませんでしたが、太鼓を打つということも一人の画家が孤独に絵を描くことに似ていると思います。伊藤若冲をテーマにした『若冲の翼』という作品も作りましたが、面白いのは藤田嗣治も伊藤若冲も、僕が作品化した直後に大きなブームが来ているのです。『英哲さんがとり上げると、その画家が評判になる』と言われて、面白いなと思いました」

1998年からはワールド・ソロコンサートシリーズ「千年の寡黙」もスタート。世界各国で大きな反響を呼ぶ。

「肌の色も言語も宗教も価値観も違う人たちの前で演奏してきました。そういう国で反応がまったく逆になったりということは全くなくて、皆同じなのです。アフリカ人であろうが、イスラムの人であろうが、ヨーロッパやアメリカなど先進国と言われるところであろうが、日本とは全然関係ない国の人たちが、僕の演奏を聴いて泣く。そういうことがどこでも必ず起こる。何故なのか考えた答えの一つが日本の太鼓の出す音です。生まれる前に胎内で聴いていた音であったり、二足歩行の人間が、どんなに体型、人種、考え方が違っていても感じている心臓の鼓動が、日本の太鼓の音と近いのでは、と思うに至ったのです。この生まれる時の体験というのは、共通しているのだと思います。分断の時代だと言われますが…アメリカも人種問題や、難民や移民の問題で対立しているけれど、人間のありようは、世界中変わらないと思う。このおかげで、僕は世界中の人々と通じ合えたり行き来が出来たりするのだなと。それを僕は見続けてきたように思います。和太鼓という日本固有のものが世界共通のものに通じていたなんて、これはすごいパラドックスですよ」

19歳でプロとしての活動を始めて69歳となった今、選んだ道に迷いはないという。

「来年は古希です。皆さんから『この年齢になったからしんどいですか』『若い頃とは違いますか』と聞かれますが、『太鼓を打ってると元気になりますから』と答えています(笑)。20代の頃は、30過ぎたらこんな仕事は出来ないと思っていたし、30過ぎたらこんな仕事は出来ないと思っていた。オリンピックで頂点を目指して頑張っていたタイプではありません。どういう宇宙の意志が働いたのか…何万人という人たちが振り返ってくれるものではないけれど、必ずその都度助けてくれる人たちがいて『頑張れよ』『お前いいよ』と言ってくれたのです。不思議な経験をしたことも何度かあります。太鼓を打つ仕事はきついし、一晩のステージでも消耗します。大変ですけど…まだ若かったある日、『これ以上は限界』という感覚に襲われ、その瞬間に、幽体離脱という言葉はまだなかったけれど、自分を上から見ている自分を感じました。上から『頑張っているな』と(笑)。また、だいぶ後になって、今度は一人で練習しているときにフラッシュのような光がうわーっとやってきて、その光に包まれて『お前がやっていることは何の問題もない』と、誰か分からない声が聴こえたのです。一切問題がないからこのままでいいのだと。漫画みたいですけど(笑)。我々の仕事は、オーケストラと共演しても『うるさい』と言われたり、音を出すとパトカー呼ばれたり、嫌われるのですよ。楽屋に名前も書かれませんし。そういう社会の目をちくちく感じながらも、つらいとも悲しいとも思わなかったけれど…負い目を感じながら『お前は全部OKだ』という光のようなものがやってきたときは、啓示だと思い救われました。小澤征爾さんは『僕はいつも神様のために演奏しているから、神様に恥ずかしくないようにやっている』と仰ってましたが、人間はどこかそういうところに向かうのかも知れません。こういう話をすると、僕だけではなく色々な音楽家が、似たような経験をしたと語ってくれますね」

さまざまな人と出会い、救われ、導かれたからこそ、50周年は「あえて一人で舞台に立つ」と決意した。天空の神々に向けた祈りと救済の響きが、サントリーホールに響き渡る。