ORCHESTRE
PHILHARMONIQUE
ROYAL DE LIÈGE

クリスティアン・アルミンク指揮
ベルギー王立
リエージュ・フィルハーモニー管弦楽団
来日公演2019

Music Director, Conductor

CHRISTIAN ARMING

品格あふれる「貴公子」マエストロ、
クリスティアン・アルミンク

ベルギー王立リエージュ・フィルハーモニー管弦楽団

TEXT BY TAKUO IKEDA
PHOTOGRAPHS BY YURI MANABE

1971年ウィーン生まれの指揮者、クリスティアン・アルミンクの誕生日は3月18日。たまたま翌日インタビューしたとき、「いくつになったの(Wie alt bist Du geworden)?」と尋ねたら、「ヨンジュウハチ!」と日本語で答えた。

クリスティアン・アルミンク(指揮)
Christian Arming, conductor

ウィーン生まれ。ハーガーや小澤征爾のもとで研鑽を積み、ヤナーチェク•フィルの首席指揮者、ルツェルン歌劇場の音楽監督などを経て、03年から13年まで新日本フィルの音楽監督として活躍した。11年からベルギー王立リエージュ•フィルの音楽監督を、2017年からは広島響の首席客演指揮者も務める。 チェコ•フィル、ベルリン•ドイツ響、サンタ•チェチーリア国立管、ボストン響など多くのオーケストラに招かれている。

2003〜2013年に新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督を務め、本拠地すみだトリフォニーホールがある東京・錦糸町の下町ライフを満喫しただけに、かなりの数の日本語単語を今もキープしている。

いや、それ以前の生後間もなくから4年あまり、クラシック音楽の名門レーベル「ドイツ・グラモフォン(DG)」の極東代表だった父親の転勤により六本木で育った。日本語がほとんど話せなかったころから「僕の体の中のどこかに、日本がある」と感じていた。

ウィーンに戻った後も自宅にはクラウディオ・アバドやヘルベルト・フォン・カラヤン、プラシド・ドミンゴら世界的音楽家が頻繁に訪れ、クラシック音楽の滋養をふんだんに吸収して育った。

アバドといえば、指揮者とオーケストラ楽員の人間関係をトスカニーニ以来の上下(垂直)から、友だちに等しい横並び(水平)へと、歴史的な大変換を成し遂げたマエストロだった。どんな若い楽員、ソリストもアバドのことをマエストロとは言わず、最後まで「クラウディオ」と親しみをこめて呼んだ。

アルミンク以前にも日本のオーケストラで音楽監督、常任指揮者、首席客演指揮者などのポストを得た外国人指揮者はいたが、皆どちらかといえば高齢で、「ヨーロッパの伝統文化を極東の島国に伝授する」というフランシスコ・ザビエル(日本にキリスト教を最初に伝えたイエズス会の宣教師)的見地に立っていた。

ポスト・アバド世代のアルミンクは完全に日本人との共同作業の担い手として新日本フィルに現れ、クリスティアンと親しまれ続けた。

私がクリスティアンと初めて会ったのは、1998年5月の尼崎。新日本フィルが当時の音楽監督(現在は桂冠名誉指揮者)、小澤征爾の指揮で続けていた「ヘネシー・オペラ・シリーズ」でドビュッシーの「ペレアストとメリザンド」をとり上げ、副指揮者として、大人になってからの「初来日」を果たしたときだ。

小澤が病気で降板、ジェラルド・シュワルツが代役指揮に決まった途端にチケットの払い戻しが相次いだ。危機感を覚えた新日本フィルの松原千代繁専務理事(当時)からテコ入れ取材を要請され、メリザンド役の大歌手テレサ・ストラータスをインタビューするため、私は尼崎アルカイック劇場に向かった。

そこで松原から「この若者、将来のマエストロだよ」と紹介されたのが、クリスティアンだった。イケメンのエリートなのに礼儀正しく、外国人相手にゆっくりとドイツ語を話し、育ちの良さからくるであろう、優雅な物腰に強い印象を覚えた。

新日本フィルの音楽監督に決まると、今度は松原の後任の森千二専務理事から「1回の取材ではなく長く寄り添い、じっくりと見守るジャーナリスト、友人になってほしい」と懇願された。

初対面の5年後、すでにヨーロッパでもキャリアを順調に発展させている時期だったが、謙虚な姿勢とフレンドリーな雰囲気には全く変わりがなかった。就任披露のマーラー「交響曲第3番」はトリフォニーホール開場記念に小澤が指揮したのと同じ作品だが、合唱指揮の経験も豊富なクリスティアンはモンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り(ヴェスプレ)」から無伴奏の1曲を冒頭に置き、新時代の幕開けを鮮やかに宣言した。

以後の斬新な展開、新日本フィルの躍進はまだ多くの記憶に新しい。日増しに美しく、柔らかく変貌するオーケストラの音色はクリスティアンのウィーン趣味だけでなく、品格と優しさを兼ね備えた人格もストレートに反映したものだった。

当時、滞日中の朝は錦糸町界隈をジョギング、カフェで楽譜を広げ、すっかり地元の顔になった。

錦糸町駅前の「つばめグリル」に陣取り「墨田区の顔になったのだから、何人もがサインを求めてくるだろう」と、意地悪なゲームを提案したことがある。結果ゼロで落ち込むクリスティアンを必死になぐさめたり、コリアン焼肉の「愛」という店での支払いにいきなり、ウィーン近郊のライフアイゼンバンク(日本のJAバンクに相当)のクレジットカードを出すのに驚いたり…と、スマートな容姿にふさわしくないエピソードの数々もまた、クリスティアンの実直な人柄を物語って余りあるものだった。

転機は2011年3月の東日本大震災。4月にはクリスティアン指揮の新日本フィルが新国立劇場のピットに初めて入り、ウィーンゆかりのR・シュトラウス「ばらの騎士」を上演するはずだったが、家族の猛反対に遭ってクリスティアンは来日を断念、マンフレッド・マイヤーホーファーが代役で指揮をした。新日本フィルとの蜜月に水をさす一大事件だった。それぞれのアーティストに家庭や家族があり、抱える事情も様々だが、大震災直後の混乱のさなか、クリスティアンの決断を批判する声は少なくなかった。

2013年8月に新日本フィルを退任した後もNHK交響楽団や兵庫県立芸術文化センター管弦楽団へ客演、2017年4月にはウィーン音大時代からの盟友、下野竜也音楽総監督の招きで広島交響楽団(広響)首席客演指揮者に就くなど、クリスティアンと日本の絆は切れなかったが、すみだトリフォニーホールからは足が遠のいていた。

2019年2月25日。クリスティアンは2011年から音楽監督を務めるベルギー王立リエージュ・フィルハーモニー管弦楽団との日本ツアーに先立つ記者会見に臨むため、6月30日の公演会場であるトリフォニーホールへ、6年ぶりに現れた。同ホールの上野喜浩プロデューサー(当時)がすかさず、「お帰りなさい!」と声をかける。廊下で私と出くわした瞬間、クリスティアンは「おお!」と声を上げ、肩を抱きかかえてきた。

2月24日に広響の「Music for Peace Concert」を広島文化学園HBGホール(広島市)で振り、さらに「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」の「カルメン」(ビゼー)を指揮するための来日をとらえ、実現した会見だった。

後日のインタビューで、そのときの気持ちをきくと、「本当に久しぶりのトリフォニーだったけど、すみだは考えていた以上に大切な場所で、自分にとっては間違いなく『第二の故郷』だったのだと思い知った」と答えた。

クリスティアンは会見当日、1つのドイツ語のことわざをかみしめていたという。「Die Zeit heilt alle Wunden」、日本語に訳すと「時はすべての傷をいやす」。リエージュ・フィルに続き、来年3月には広島交響楽団ともトリフォニーを訪れ、新日本フィルと自身で立ち上げた「すみだ平和祈念音楽祭」にも復帰する。

音楽塾の「カルメン」は途中で小澤が降板、首都圏ではクリスティアンが全幕を指揮した。「リエージュの仕事がたくさんあるので、スケジュール調整には苦労するけど、オペラは続けていきたい」といい、「ルサルカ」(ドヴォルザーク)や「ナクソス島のアリアドネ」(R・シュトラウス)など、けっこう難易度の高い作品に挑んでいる。

北米ではアトランタやセントルイスの交響楽団へ定期的に客演、世界のマエストロに飛躍しつつある好漢クリスティアンのことを、私たち「第二の故郷」の住人は今後も温かく見守りたいと思う。