Teodor Currentzis
and musicAeterna
Orchestra & Choir
ASIA TOUR 2020

テオドール・クルレンツィス&管弦楽団
オーケストラ&合唱団
アジアツアー 2020

Conductor

TEODOR CURRENTZIS

テオの楽団

TEXT BY KEI WAKABAYASHI
PHOTOGRAPHS BY KAORI NISHIDA

2019年2月に待望の初来日を果たし、
神秘に包まれた、そのベールを脱いだムジカエテルナ。
賛否両論、さまざまな議論が飛び交った
衝撃の公演から早9ヶ月で再来日が決定した。
ムジカエテルナとはなにか。その魅力、現代性はどこにあるのか。
初来日時にテオドール・クルレンティスと
パトリシア・コパチンスカヤのふたりの記者会見で
司会を務めた編集者・若林恵が、その楽団の魅力を、改めて振り返った。

インダストリアル・ニューロマンティック

テオはその昔バンドを組んでいたのだという。あるインタビューで、彼はそのバンドでやっていた音楽を「インダストリアル・ニュー・ロマンティック」と称している。ニュー・ロマンティックといえば、その代表選手はデュラン・デュランということになるはずだが、そのサウンドをぐっとヘビーにしてインダストリアルノイズ仕立てにしたという感じなのだろうか。

思い起こせばデュラン・デュランはバーミンガムという工業都市の出身だ。同郷のヒーローといえば、時代を上がればブラック・ザバス、下ればナパーム・デスがいる。イギリスきってのインダストリアルシティに産まれ落ちたニュー・ロマンティック。テオのバンドが果たして、その延長線上にあったのかどうなのか知る由もないが、テオは、ドゥルッティ・コラムのTシャツを着てモーツァルトの楽曲を指揮するような人物だ。1972年生まれ。これだけでおよそのお里は伺い知ることはできる。

2019年の今年、テオとその楽団ムジカエテルナは、ブライアン・イーノ御大とパリで共演したのだそうだ。即興的なアンビエント・セッションだったと言うが、「どうやって知り合ったの?」と聞くと、「コンサートを聴きにきてくれたんだよね」。そして「ブライアン・イーノは子どもの頃からのヒーローだからね」と嬉しそうにわざわざ付け加えた。イーノが在籍したロキシーミュージックは、言うまでもなくニュー・ロマンティックの源流のひとつではあろうし、子どもの頃にパンク/ポストパンクに親しんだというテオが、イーノを無視できるはずもない。それにしても気になるのはイーノの側だ。彼はテオの音楽に何を聴き取って、一緒にやろうと思いたったのか。

レイトエイティーズのトラウマ

ぼくはレイトエイティーズの申し子なのだ、とテオは東京で行われた記者会見の席で語った。レイトエイティーズは、変革の季節であり、自由の季節でもあったとテオは語る。ベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦が解体へと急速に向かっていく大混乱のさなか、ギリシア出身のティーンエイジャーは、サンクトペテルブルクでその季節の風を体感することになる。ボロアパートにスクワットした若きアーティストや音楽家や詩人たち。夜な夜な詩を語り、音楽やアートを語りすごした季節を、テオは、まるで1920年代のパリのようだった、と回想する。

同じ景色は、80年代後半のベルリンでも見られたものだった。アーティスト、ハッカー、DJ、ヒッピー、パンクス、テクノロジスト、エコロジスト、主義主張入り乱れるアクティビストがスクワットした古倉庫やアパートは、のちに花開くことになるクラブカルチャー、そしていまをときめくスタートアップカルチャーの苗床となっていった。レイトエイティーズの精神は、いまやメインストリームともなった文化のなかで脈動している(この辺の経緯は武邑光裕の著書『ベルリン・都市・未来』に詳しい)。

なににせよ、テオにとってその体験はかけがえのないものとなった。そこで感じた希望と自由は「トラウマ」となったと彼は語る。自由を感じたことのない者に、自由の素晴らしさを説明することはできない。それは、恋をしたことない者に恋の素晴らしさを説明するようなものだとテオは言う。

けれども、その後にやってきたのは、幻滅の90年代だった。グローバル資本主義が世界を席巻し、テオの麗しき青春の舞台となったロシアは、新興財閥の出現とともに極端な格差社会へと姿を変えていった。クソみたいな官僚支配が終わったと思ったら、クソみたいなコーポレート支配がやってきた。

旧ソビエト連邦地域のなかでその変化を目の当たりにした人たちの話を聞くと、そこで起きた体制の転換は、怒りとフラストレーションの混じった苦い混乱をもたらすものだったことを伺い知ることができる。

とあるイベントで出会ったロシア出身の写真家はその90年代をティーンエイジャーとして過ごした。彼女は、そこで起きた変化をまったく理解できなかった。ゆえに、それを理解するために写真を撮る必要かあったと言う。不安定な社会に自分を繋ぎ止めておくよすがを求めて彼女はカメラに手を伸ばした。その一方で社会から自らドロップアウトし、土着の民間信仰や新興宗教にその救いを求めた人も、当時のロシアには少なからずいたという。ソビエト崩壊後のロシアには新興宗教が数多く生まれたとされるが、思い起こせば、オウム真理教がロシアに進出したのも、この頃だった。

テオドール・クルレンティスという指揮者のキャリアはシベリアで始まった。シベリアで、世間から隔絶するように楽団員と共同生活しながら音楽をつくってる変わったオーケストラがある、ということを教えてくれたのは写真家の大森克己さんだった。正確にいうとテオは、2000年代初頭にはシベリアからペルミというウラル山脈の麓の工業都市へと移り住み、その街のオペラ劇場の音楽監督に就任していた。彼が、彼の楽団であるムジカエテルナと共同生活を行なっていたのは、このペルミでだった。

この奇妙な楽団のあらましを聞いたとき、即座に思い起こしたのは、「シベリアのイエス」とも呼ばれるヴィサリオンなる人物が率いる新興宗教だった。彼は数千人とも言われる教団員とともに自給自足の自律的生活共同体をつくりあげた。彼らは世界変革や社会改変急激な時代の変化をうたわない。ただ静かに穏やかに世界の終わりを待つ。それは時代の急激な変化からこぼれ落ちてしまった人たちのための、ロマンティックなユートピアだった。

テオとその楽団を、それになぞらえてカルト的と呼ぶのはそれ自体がクリシェでしかない。けれども東西を隔てていた壁の崩壊とともにやってきた希望が、資本主義の勝利の凱歌とともにやってきた新たな分断に取って変わられていくのを目の当たりにした幻滅は、どこかで繋がっている。ただし、テオの場合、その幻滅をポジティブな気概に変えて、学生時代に味わった自由を、90年代以降の世界に取り戻すことをミッションとして指揮者のキャリアを築いていくこととなる。

地下音楽とクラシックの再発見

テオは、2005年のインタビューで、自分がクラシック音楽を救うのだと大見得を切っている。

制度化された興行、お仕事化した楽団、権威化した音楽学校、阿諛追従を旨とするメディア、警察化した聴衆、そしてそれらすべてに覆い被さる商業主義。束の間のロマンティックな季節のなかで自由の息吹を胸の奥底まで吸い込んだテオは、そんなものよりも世界中のアンダーグラウンドミュージックのなかにこそ時代の声が、より鮮やかに映し出されていると感じていた。

アカデミーでお勉強をしたお坊っちゃまたちよりも、そうしたアンダーグラウンドミュージシャンたちのほうが、はるかに鋭く、シューマンやらシューベルトやらの核心に迫ることができたはずだ、とテオは言う。テオが、自分は作曲家の意図を忠実に実行しているだけだと語るとき、彼は、明らかに自分を地下音楽家の側においている。ポストパンク、インダストリアル/電子ノイズ、フリーアバンギャルド、ハードコア、テクノなどが入り乱れカオスと化した当時のアンダーグラウンドシーンの活況を「自由」の原風景として体感したテオの目に、クラシックの世界がどう見えたかは想像に難くない。彼はアンダーグラウンドミュージシャンの感受性を通して、初めてクラシック音楽を新しいものとして再発見し得た。クラシック音楽を新たな時代のなかへと救い出すチャンネルを、彼はサンクトペテルブルクの地下音楽シーンで見つけたに違いない。そして彼は自らを既存のシステムから切り離し、修道僧のような音楽生活のなかへと引きこもるようになる。

テオの楽団は、技術がどれだけ高くとも、どこまでも素人の一座のように見える。音楽の業界なんていうものが存在することすら知らないある音楽好きが、たまたま見つけたチャイコフスキーの楽譜に魅入られて、近隣の腕利きの楽器弾きを集め、「これってたぶんこう弾くんだと思うんだよね」と素手で手探りの解釈をしながら演奏してみたという感じなのだ。もちろん楽団員はどこに出しても恥ずかしくない何れ劣らぬ名手には違いないが、それでもテオとその楽団は、職業演奏家であることを、その内面においてもきっぱりと拒んでいるかのように見える。この人たちはもしかしたら普通のオーケストラが座って演奏することすら知らないんじゃないか。そんな錯覚さえ覚えるほどだ。合宿生活の意義は、音楽の密度や精度をあげていくことよりも、外の世界ですごすうちにまとわりついた「あたりまえ」や「しがらみ」「しきたり」を取り払い、カラダとアタマと感覚をリセットするところにあるのだろう。人は気づかぬうちに、日々のルーチンによって心もカラダもこわばってゆく。それを自由に解き放つためには、それなりの訓練を要する。

関係ない話だが、いまやデジタル国家として世界に名を馳せるエストニアは、ソ連邦が崩壊した直後の新しい政府を若い官僚の手でつくりあげるほか手立てがなかった。ある知人は、新政府の発足直後にエストニア最大の民間銀行の頭取を務めたというのだが、驚くなかれ、その役職に就いたとき、彼はまだ30歳手前だった。彼は言う。

「あれをやってはいけないとか、こういうことをしてはいけないといった、その業界のしきたりみたいなことは何ひとつ知らなかったから、理屈として正しいと思えたことを原理的に実行するしか手立てがなかったんだよね。だから、そんなことはやっちゃダメだよ、と言われても、なんで?って平気で問い返すことができた」。

ここにはテオはが語るレイトエイティーズのエトスに近いものがある。過去のしがらみや当たり前を「なんでダメなの?」と平然と問い返し、大人の事情などどこ吹く風、知っていても知らないフリをして、いきなり原理へと向かう。

光、もしくは地震

ここでいう原理とはテオの場合、楽譜そのものだ。テオは、楽譜を通した過去の作曲家との交感を、「周波数・波長=frequency」ということばを用いて説明する。周波数が合えば、音が通じ合う。合わなければ何も聴こえない。ラジオのつまみをゆっくりと回していくように、作曲者の波長に向けて慎重にチューニングしていく。しかし、その周波数は絶えず動いているともテオは語る。あるチャンネルにチューニングしたからといって自動的にチャイコフスキーと通じ合うわけではない。そして、そうしたチューニングは、作曲者に対してだけでなく、共演者に対しても、さらには聴衆にたいしてもなされなくてはなくてはならない。

PHOTOGRAPH BY KATSUMI OMORI

盟友というよりは、テオのソウルメイトとでも呼ぶのが似つかわしいバイオリニストのパトリシア・コパチンスカヤは、テオドールとチューニングを合わせることにはなんの苦もないと語る。「逆にチューニングが難しい共演者はいる?」と水を向けると、みんな違う波長をもってるから、と答える。「テオとその楽団の何がそんなに特別なの?」。さらにそう尋ねると、彼女はじっと黙りこんでしまった。あれ?質問聞こえてなかったかなと、そわそわしだしても、まだ一言も発しない。どうしたもんかと考えあぐねていると、突然答えが返ってきた。「同じものを求めているのよ。同じところを目指そうとしているの」。「そこにはいったいなにがあるんですか? 」。するとまた黙りこむ。そしてか細い声で再び答える。「光。光なのよ」。

記者会見の席でも、パトリシアは、作曲者、演奏者、さらには聴衆の周波数がぴたりと揃ったとき、そこには地震が発生すると語っていた。そこに地震が起きる。そしてわたしたちは、そこに入っていかなくてはいけない。彼女はそう言った。その光、あるいは地震のなかにおいて、80年代後半にテオの心にトラウマを刻んだ「自由」が、きっと感得されるということなのだろう。

「自由は好き勝手に演奏することではない。よくパトリシアは自由な演奏家だと言われるけれど、それは誤解だ」とテオは釘をさす。テオはこう言う。「自由にいたるためには真摯で誠実でなくてはならない。そして誠実であることはむしろ保守的なことでもある」。

輪のなかにいること、委ねること

光のなかにいること。地震のなかにいること。音楽のなかにいること。ひとつの時間のなかにいること。演奏家だけではない、聴衆もまたそのなかに入っていくことが求められている。言われてみれば、そうなのだった。演奏を上から眺めるだけの「お客さん」でいることが、こんなにつまらない楽団もない。楽器なんてこれっぽっちも弾けないけれど、彼らの演奏を聴いているうちに、自分もこのバンドのメンバーになりたくなってきてしまった。自分がメンバーの一員だったなら、あのチャイコフスキーはどんなふうに聴こえるのだろう。

テオとパトのコンサートが問うていたのは、むしろ聴衆であるぼくらのチューニング能力だった。時代の混乱のなかで負った傷から産み落とされた音楽を、果たしてぼくらは、その同時代性のなかで、ひりひりするほどにアクチュアルなものとして聴いただろうか。いまという時間、いまの世界のなかにおいてそれを聴いただろうか。

テオとパトは、安閑と客席という安全地帯に居座っている「お客さん」という存在のぬるさをつきつけ、音楽を自分ごととして感じたかったらまずは聴衆という立場を捨て去るよう要求していた。主体と客体の関係性や批評家目線を捨て、光、あるいは地震に身を委ねるよう誘っていた。

「Surrender(降伏する、身をゆだねる)は能動詞なんだ。ものごとを制御できないとき、人は身をゆだねる。それができるようになるのはとても大事なことだ。Grace(優雅さ、優美さ)とは身をゆだねる力であり、状況をコントロールしようとするのではなく、流れの一部になることなんだ」

ブライアン・イーノはかつて、あるインタビューでそう語っていた。委ね、流れの一部になることで得られる自由。彼がテオの音楽にみつけたのは、もしかしたら、それだったのかもしれない。