TOMOKI KITAMURA
Real-time Vol.1
“aus der Ferne”

北村朋幹ピアノ・リサイタル

Piano

TOMOKI KITAMURA

北村朋幹がいま、
考えていること

ピアニスト北村朋幹インタビュー

INTERVIEW and TEXT BY TAKAAKIRA AOSAWA
PHOTOGRAPHS BY TAKA MAYUMI

ピアニストであるまえに、音楽家であること──。
人と音楽との関わりかたはさまざまだ。
音楽家と音楽との関わりも一面的ではない。
ともあれ、ピアニストは人前でピアノを弾く。
それが職業生活の主舞台だが、もちろんそのすべてではない。
作品との対話、ひとりきりでの練習と、
無数の見知らぬ聴衆との間で、彼らの生活はある意味、大きく引き裂かれている。
上手にそこを繋ぐことが、この職業の生命線とも言える。
しかし、楽器を弾く以前に、そこに音楽がみえていること、
探し求めるさきにその音楽があると信じられることが重要だ。
北村朋幹なら、そのことに懐疑的である必要はないだろう。
「世界でいちばん音楽を愛している」
──そう自負してきた人間なのだから、彼は。

北村朋幹が注目を集めたのは2005年、第3回東京音楽コンクールで第1位と全部門から選ばれる審査員大賞を受賞したとき。ここから14歳の少年だった彼の演奏活動が始まっていった。

北村朋幹(ピアノ)
Tomoki Kitamura, Piano

1991年愛知県生まれ。3歳よりピアノを始め、これまでに浜松国際ピアノコンクール第3位、シドニー国際ピアノコンクール第5位ならびに3つの特別賞、リーズ国際ピアノコンクール第5位、ボン・テレコム・ベートーヴェン国際ピアノコンクール第2位を受賞。2005年、第3回東京音楽コンクールにおいて第1位ならびに審査員大賞(全部門共通)受賞。以来、国内外の主要オーケストラと共演しており、日本、ドイツをはじめヨーロッパ各地でソロリサイタル、室内楽、古楽器による演奏活動を定期的に行っている。

「10代の頃はピアニストだとも思っていなかったし、ピアノというのはたまたま手段であるだけで、正直に言ってピアノを選んだことをすごくハッピーだとは思っていなかった」と彼は当時を振り返る。「オーケストラや作曲のほうに興味があって、でも自分ができることはいまのところピアノしかないからピアノを弾いている、という感じで。単純に夢として、オーケストラの曲をそのなかの楽器で演奏することができるのであれば、それほど魅力的なことはないですよ。もちろん、後から自分のなかで修正しているところも大いにあるでしょうけれど、そういう考えかたで間違ってないだろうなって、いまは思いますね」。

デビューから15年近い歳月が経過し、いまはベルリンに暮らして、時代楽器や歴史的奏法の知見も深めながら、北村朋幹は自分の道を手探りで、しかしじっくりと歩み続けている。

「人前で弾く演奏がいちばんいい演奏であることは、僕にはいまのところ起こり得なくて。そう思いたいだけかも知れないけど、やっぱり家でひとりで弾いているときがいちばん幸せだし、いちばん純粋な音楽をしているような気がします。
だから、演奏会で弾くというのがピアニストの定義だとすると、それは音楽にとって不自然なことなのかも知れない。結局、人前で演奏することが自己愛みたいなことと関係してしまうと、こうありたい自分みたいものを目ざしてしまう、ましてやそれを人にみせることになってくる。そういうことと自分の考える音楽というものの差が、ここ数年はとくに気になっているかも知れないです。でも、人前に出て演奏するのが好きなのがピアニストだと言うのなら、僕は最初からピアニストじゃないかも知れない。そういうことはあまり、というか、まったく好きではないです」。

しかし、自分が思う音楽の理想とともに、舞台に立って演奏する以上、みられている自分というものは、そこにどうしたって介在してしまう。

「ほんとうにそうです。だから、シューマンが確かメンデルスゾーンの無言歌について、『誰だって一度は、ピアノでふと即興的にメロディーを弾いてみて、それがあまりに美しかったから鼻歌として歌ってしまうことがある』みたいなことを書いている、『誰だって』とね。その感覚が演奏会にあらわれたら、いちばんいい。でも、いまのところ僕には、それはひとりだからできることで……」。

そうした乖離や違和感が、ここ数年で強まってきたというのは、どのような心境なのだろう?

「わからないですけどね。もともと僕は両親ともに音楽家ではない環境で育ち、音楽が好きで、音楽をやっていたら仕事がきて、それは幸運だったんですけど、その意味もわかってないし、責任がないから、期待もなくて。これでうまく行ったら次もある、みたいなことも考えなかったし。この仕事に『続く』という発想はないから、毎回違うことをやっていた。10代のときには、とにかくやりたいことを全部やっていましたね。計画というものがまったくなくて、ある意味、僕はその頃がいちばん幸せなピアニストだったのかも知れない。将来についてなにも考えていない状態で、好きな音楽がたくさんあって、自分の得手不得手なんて考えもしなかったから、その曲が弾けることじたいが幸せっていうか。その時期の演奏を、たまたま聴き返す機会があったんですけど……」。

──うらやましいと思ったでしょう?

「ほんとうに、うらやましいんですよね。逆にいまどこかで目指してる部分が、その頃の演奏のなかにはあって、でも当時と同じ創りかたは絶対にできない。20代前半にヨーロッパ留学を始めたこともあり、そこで仕事のしかたというか、自分を外から見る視点が生まれてきたように思います。とにかく、弾いてみたい曲を家で好きに弾いているときはとても幸せで、夢としてもっている曲はいくつもあるけど、でもいま自分が現実世界でやってる活動とはまったく違う。演奏会で曲を選んで弾くということは、『自分がなにかできるかも知れない』という期待をしてしまっているわけで。期待が生まれると、偽りが生まれるんですよね、そのなかには」。

そうした演奏家としての葛藤のさなかにあって、彼がいよいよ自主的に取り組むリサイタル・シリーズ「Real-time」は、歳月を重ねつつ、特別な音楽体験に育っていくものだろう。今秋の初回リサイタルは、デビューCDでも核となったシューマンのハ長調の「ファンタジー」に向かっていく。そこからもっとも遠い調性をとる嬰ヘ長調のソナタから旅立つが、それは北村が偏愛する調性でもあり、彼が中学生のとき初めて人前で弾いたベートーヴェンのソナタがこのop.78だという。そうして、ここに自ずと、いくつかの始まりが重なってくる。

「その日その瞬間に良い演奏をすることが求められているのは、やっぱりとっても不自然なことだし。それを計画しすぎると、自分のなかの感動はどんどんなくなっていく。演奏会で弾き始めたときに『あぁ、ようやく弾けた!』って思えないといけないし、その感動が本番で出せるときは、たぶん自分が計画したこととか自意識みたいなものが、ある意味演奏から取り払われて、自分のために弾けていると思うんですよね。でも、そちらに傾きすぎると演奏は破綻するし、演奏会では破綻しちゃいけないと言われているので、そこが難しいですね、僕にとっては」。

それでも、北村朋幹は人前でピアノを弾く、ある意味では私的な音楽家としての幸せからいったん自らを追放するように──。

「でも、それもちゃんとどこかでは理解していて、そのうえで音楽をやりたいと思っている自分は確かにいるんですよ。これは僕の意識としては初めての自分のシリーズになりますし、ムジカーザで毎回弾くことによって、いつしか家で弾いているような感覚になったらいいかなと。一昨年の秋に、この場所でシューベルトの変ロ長調トリオを演奏したときに、なにかあたたかいものがあったと思えるのですね。ここだったら、家みたいなというか、少しプライヴェートな感じをもって弾けるんじゃないか。続けていくことに意味があるんじゃないか、ということをすごく感じたので、僕の希望としてはずうっと続けたいです。それこそ real time で、毎回僕がほんとうに弾きたいプログラムを」。

ささやかだけれど、取るに足るもの──新作CD「Bagatellen」をめぐって

北村朋幹のリサイタル・シリーズ「Real-time」の初回にも含まれる、ブラームスの「8つのピアノ小品」op.76。偉才の後期小品連作を先駆ける同曲集の前に、バルトーク初期とベートーヴェン晩年のバガテルを組み合わせるのが、新作CD「Bagatellen」の構想である。 

「ささいなもの、取るに足りないもの」という言葉で、あるいはたんに「ピアノ曲」と、自らの小品を称した作曲家たち。音符に書き留める以前の、原初に聴いていたのは、どのような音楽だったのだろう?

Bagatellen 北村朋幹
バルトーク:14のバガテル op.6 Sz 38 BB 50
ベートーヴェン:6つのバガテル op.126
ブラームス:8つのピアノ小品 op.76
FOCD9823 定価¥2,800+税 
収録:2019年5月29-31日 相模湖交流センター
レーベル:フォンテック

──リサイタル・プログラムもブラームスのop.76から組み立てたという話ですが、新しいCDもこの小品集から始まったのですね。

「こんな曲はほかにない、という瞬間がたくさんある。同じようなかたちのものを8つ並べただけだなと思ったこともあったし、とてもうまくいった小品集とは言えないですよね。だから、そういう意味でプライヴェートな部分に惹かれるのでしょうけど。いっぽうで、彼はピアノ曲を久々に書こうと思って書いているから、そういう意味ではもっともピアノ曲らしいとも言える。ひとつひとつをみていくとほんとうにプライヴェートなのだけれど、ブラームスはピアノ小品へのオマージュみたいな感じで、すごく小品集を書きたかった。ショパンやシューマンの楽譜編集をしたときに、ピアノ小品というものの可能性に気づいたわけで」。

──そこから、私的で、内的な、ピアノ小品集というCDの構想がはじまった……。

「いろいろと模索した結果、CDレコーディングは演奏会とは違ってプライヴェートなことができる、というところに落ち着いて。だから、いちばんかんたんなところでいうと“小品”ということになるし、でも小品に絞ったというのではなくて、作曲家が人に出すことをいちばん最初の前提として書いていないもの。それこそ即興演奏してたら落ちてきた、ただのアイディアとか、その後結果的になにかの花になったけど、その時点ではまだなんの種かわからないようなもの。バルトークの『14のバガテル』はまさにそうで、まだその種をうまく扱えていない。10年や15年くらい経って、彼はようやくその種を咲かすことができた」。

──バルトークは初期作op.6ですが、もうひとりもBで、ベートーヴェンは晩年のop.126ですね。

「気づけばそう。しかも“Bagatellen”ですしね(笑)。あの時期のベートーヴェンですから、どんな人でも崇めすぎてしまうところがあるけど、やっぱりスケッチ的な要素は絶対にあって。そういう意味では、ほんとに不思議な曲です。もう少し成長して行ったら、たとえばソナタになったり、実際にああいうものが弦楽四重奏曲になったりしているわけですけれど、それよりも自由さがあって。ましてや、ベートーヴェンがあの後には書かなかった、独りのための音楽ですから。音楽の上で、やっぱり独りであることの自由さがあって、それを僕はやっぱりプライヴェートと言いたいんだけど」。

──未完の種子の集まり。ここにもいろいろな始まりが重なってくるわけですね。演奏を聴いて、こちらもなにかをあたためる……ベートーヴェンの未知の可能性を想像するとか、ブラームスの晩年への道筋を手繰るとか、あるいはシューマンのファンタジーを繋げてみるとか、そういうものがみえてくると、聴くほうとしてもますます愉しい体験になりますね。

「いや、そういうふうに聴いてくださる方がいると、それはいちばんの本望ですけれどね。点で聴かれるとたいへんじゃないですか、こういうプログラムって」。