GEWANDHAUS
ORCHESTER
LEIPZIG

アンドリス・ネルソンス指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
2019年5月来日ツアー

Kapellmeister, Conductor:

ANDRIS NELSONS

ゲヴァントハウスの響きの質は驚異
私とは蜂蜜のように甘く溶け合い、
柔らかく、息の長い音楽が生まれる
──アンドリス・ネルソンス


アンドリス・ネルソンス指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
2019年5月来日ツアー
初日公演&来日記者会見レポート

TEXT BY TAKUO IKEDA
PHOTOGRAPHS BY KAORI NISHIDA

ドイツの名門オーケストラ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(1743年創立)と第21代カペルマイスター(楽長)、アンドリス・ネルソンスの日本ツアーが2019年5月27日の東京文化会館大ホールで始まった。

1961年4月、第16代カペルマイスターのフランツ・コンヴィチュニーに率いられた初来日は同会館のオープニングにちなんだもので、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏が大きな成功を収めた。以後は定期的に来演、日本での演奏回数は250回を超えた。今回は記念すべき25回目の来日で、2017年に就任したネルソンスとのコンビの「お披露目」にも当たる。

初日の曲目は、ネルソンスと同じくラトヴィア出身のバイバ・スクリデを独奏者に迎えたショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」と、ブラームスの「交響曲第1番」。アンコールには第5代カペルマイスターを務めたメンデルスゾーンの序曲「ルイ・ブラス」が演奏された。

譜面台を胸のあたりに置き、長身のネルソンスが高めの指揮台に立つ理由は、音楽のつくり方、指示の出し方と密接に結びついている。細かく打点を打つのではなく、時には全く振らずにオーケストラの自発性を極限まで尊重する。全身でニュアンスや方向性を表現するには、楽員全員から「よく見える」高さが必要なのだ。

翌28日午前、ANAインターコンチネンタルホテル東京で行われた記者会見で、ネルソンスは

「昨夜お聴きいただいた通り、ある瞬間に私とオーケストラが蜂蜜のように溶け合い、柔らかな響きや息の長い音楽が生まれるのです」

と、一体感を表した。スクリデの堅固な造型と無限のニュアンスを兼ね備え、一分の隙なく編み上げられた弦の芸術をネルソンスは円く、大きなサウンドで包み込み、融通無碍の音楽の会話が成立した。

ラトヴィアは1991年のソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)解体とともに、独立を回復した。リトアニア、エストニアとともに「バルト3国」を形成、ドイツとスラヴ、2つの文化圏の接点に位置する。ともにラトヴィアで生まれ育って旧ソ連時代を体験、ドイツを経由して世界に羽ばたいた音楽家2人に、ショスタコーヴィチを今、ともに演奏する意義を質問してみた。

まず、ネルソンスの返答。

「2人ともラトヴィアの同じ音楽学校の出身で、バイバさんの方が先にドイツへ出ました。母国の音楽教育の水準は高く、多くの優れた音楽家を輩出してきたのは非常にポジティブな部分です。ソ連崩壊は政治的にも私の人生にとっても大きな体験、ショックでもありました。幸いなことに音楽の質、あるいは『言語』はあらゆる政治状況を超え、人間感情に直接訴えるものです。社会体制によって、ブラームスの演奏法が変わるということもありません」

「ただショスタコーヴィチは私たちにとても近い、ほとんどDNAのような感覚を覚える作曲家です。『ヴァイオリン協奏曲第1番』を偉大なソリストと演奏する際も、最終的には知性や説明よりも感覚的に合うか合わないかが重要です。バイバさんともテンポとか最低限の打ち合わせだけで、議論をたたかわせたりはしません。フィーリングだけで、ぴったりと合います」

次にスクリデの話。

「私はアンドリスのように、1000%(100ではなく、本当にthousandと言った!)信頼できる指揮者とショスタコーヴィチを共演できるのは素晴らしいことです。ソ連時代の私はとても若かったのですが、ラトヴィアの音楽教育のシステムは非常に整っていて、厳しかったけれども、高いレベルの演奏家を育てることができました」

ソ連時代に生まれた音楽作品にも、もちろん優れたものが数多くあります。当時は西側のポップミュージックが禁じられていたため、少女時代の私はショスタコーヴィチをたくさん聴いて、育ったのです。ソ連が崩壊すると、驚異的な量の“新しいもの”と出会いました。私にはソ連式の強力な教育と、ドイツで新しく吸収した音楽との両方が共存しています。いま改めてショスタコーヴィチを弾くと、私の中に潜む様々な時代の記憶が蘇るのを感じます」

第3楽章の長大なカデンツァ。張り詰めた響きの中には、バイバ・スクリデという人間の生きてきた時間のすべてが、こめられていたのである。

後半のブラームスの交響曲では、コンヴィチュニーからヴァーツラフ・ノイマン、クルト・マズアへと受け継がれた旧東ドイツ(ドイツ民主共和国=DDR)時代のゲヴァントハウス管弦楽団のサウンド──当時は「いぶし銀」と呼ばれた仄暗く、重心が低く、厚い弦の絨毯の上に控えめながらも味わい深い管のトッピングが載る音のバランスが、目覚ましいテクニックの向上を伴い、復活したのを実感した。

1989年の「ベルリンの壁」崩壊の何年も前からDDRの財政は疲弊、ゲヴァントハウス管ではマズア体制長期化への不満もくすぶって楽員の士気が沈み、日増しに演奏水準が低下していった。1990年の旧西ドイツ(ドイツ連邦共和国=BRD)との統一を経て、国際文化都市としてのライプツィヒの復興、発展は目覚ましかった。ゲヴァントハウス管も1996年のマズア辞任後、ヘルベルト・ブロムシュテット、リッカルド・シャイーと実力派カペルマイスターの下で世界的アンサンブルの名声を回復してきた。

アンドレアス・シュルツ楽団長(ゲヴァントハウス・ディレクトゥア)は「世代交代も進み、DDR時代からの楽員は激減。すっかり多国籍のオーケストラに変貌しました」と、記者会見で補足した。それだけにネルソンスが「あの懐かしいゲヴァントハウスの音の感触」を前任2人のマエストロ以上に尊重、21世紀版にヴァージョンアップした形で蘇らせた手腕は、驚きと賞賛に値する。

ネルソンスも「継承」と「開拓」のバランスを強く意識している。会見冒頭、「私にとって第21代カペルマイスターへの就任は偉大な夢の実現であり、人間として音楽家として、大きな喜びと責任を感じています。第1のミッション(使命)はもちろん、特別な音色とレパートリーの伝統を解釈の深化を伴いながら維持していくことです。J・S・バッハからメンデルスゾーン、シューマンらライプツィヒゆかりの作曲家の遺産を未来にどうつなぐかの一方で、21世紀の新しい音楽をその系譜の延長線上にとり入れていくのが第2のミッションです」と切り出した。

Andris Nelsons präsentiert die Saison 2019/2020

シュルツ楽団長によると、ネルソンス就任と同時に「ゲヴァントハウス・コンポーザー」の呼称で毎シーズン特定の作曲家を招くコンポーザー・イン・レジデンスの企画を開始、これまでにイェルク・ヴィトマン、HKグルーバー、ソフィア・グバイドゥーリナを起用してきた。さらに楽団主催の音楽祭も2021年5月から2年に1度のペースで開く。第1回はマーラーの交響曲全曲シリーズでゲヴァントハウス管だけでなく、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など、世界トップクラスの団体が「マーラーの宇宙」に迫る。第2回(2023年)はメンデルスゾーンとロマン派、第3回(2025年)はショスタコーヴィチの予定。

2014/15年シーズンから、とネルソンスが一足早く音楽監督に就いた新大陸の名門、アメリカ合衆国のボストン交響楽団との連携も、すでに始まっている。アルトゥール・ニキシュは1889〜93年のボストン響常任指揮者を経て、1895年からはゲヴァントハウス管カペルマイスターとベルリン・フィル音楽監督を死の年1922年まで兼務した。ドイツ領とフランス領の間を揺れ動いたアルザス(現在はフランス)出身の大指揮者シャルル・ミュンシュはドイツ人ヴァイオリン奏者カール・ミュンヒとして1926年にゲヴァントハウス管に入団、カペルマイスターがヴィルヘルム・フルトヴェングラーからブルーノ・ワルターにかけての時期のコンサートマスターだった(1932年まで)。

さらに1949〜62年はボストン響の常任指揮者に君臨、小澤征爾らを育てた。19世紀末から続くゲヴァントハウス管とボストン響の絆に、ネルソンスもしっかり結ばれた。ゲヴァントハウス管のメンデルスゾーン・アカデミー、ボストン響のタングルウッド音楽祭と、両者が深く関わる音楽教育活動が提携し、若手楽員や研修生の相互派遣に乗り出している。

ネルソンスはCD、DVDなど音楽ソフトの制作事業とレパートリー、ツアーの連動が持つ意味も、記者会見で指摘した。ディスクではユニバーサルミュージック・グループのクラシックの名門「ドイツ・グラモフォン(DG)」レーベルと契約、ゲヴァントハウス管とブルックナー、ボストン響とショスタコーヴィチのそれぞれ交響曲全集を完成しつつある。ライプツィヒに本社を置くソフト制作会社アクツェントゥス(accentus)からはチャイコフスキー交響曲集のDVDをリリースした。「十分に準備してソフトをつくり、その練りこんだ解釈を携えてツアーに臨むことでも、オーケストラの水準を引き上げられます。次の新しい世代を引き続き、クラシック音楽の世界へと誘導するためにも、ソフト制作とツアーの連動は欠かせないでしょう」と、ネルソンスは考える。

「日本ツアーではとりわけ、高い質を提供しなければなりません。日本人のクラシック音楽を学ぶ姿勢、聴衆の真剣な鑑賞態度には深く心を打たれます。もはやヨーロッパには、失われたものです」。日本の聴衆のテイストも意識した上で、ネルソンスは今回、ブルックナーとチャイコフスキーの「2つの第5交響曲」に選曲の重点を置いた。

「ベートーヴェン以来、『交響曲第5番』は作曲家自身も巻き込み、人間の“運命の1曲”となりました。ブルックナーが交響曲の初演で初めての成功を味わったのはライプツィヒ、第7番のときでした(1884年)。しかし第5番を書いていたころ(1875〜78年)は公私両面において最悪の時期に当たり、楽曲は複雑な構造を持つに至ったのです。第1楽章冒頭のピツィカートは人生と運命のパルス。第2楽章では自我を離れ、宇宙的な美しい音楽が現れます。最終楽章の二重フーガは1つの主題が20分間も続く難物。スコアのページをめくるたび、大きな建築物や記念碑の複雑な構造設計図を思い浮かべるのですが、その内側には人間の感情の大きな振幅がこめられています」

チャイコフスキーの「第5」については「これまた、別の運命の物語です」。ネルソンスの解釈は「それぞれの楽章に愛、夢、不幸など人生の様々なテーマが与えられ、チャイコフスキーの私生活を映す鏡として、象徴的な作品です」との見解に基づいている。

「第5の宿命に関しては、ショスタコーヴィチもしかりです。ブラームスも…」と言いかけたところで、私が「つっこみ」を入れた。「マエストロ、ブラームスの交響曲に第5はありません!」。ネルソンスは「そうだ、第4番で終わっている」と答え、「喋りすぎる指揮者はダメですね」と大笑いした。チャーミングな人柄である。