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スタッフが語る「あの演奏家・思い出エピソード」(1)── テンシュテット編 スタッフが語る「あの演奏家・思い出エピソード」(1)── テンシュテット編

先日まで当webに、プログラム冊子に掲載していた「はみ出しページ」をいくつか蔵出し、連載させていただきましたが、如何でしたでしょうか?
多くの方々が「Stay Home」…巣ごもり生活となっている間、少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。

さて、それを書いていたのは私、KAJIMOTOで編集室の担当をしております石川といいます。30年ほど弊社に務めておりますが、初めはアーティスト・マネジャーをやっていたこともあり、現場で様々な大アーティストと接してきて、たくさんの思い出があります。感動したこと、驚いたことも多々。
今度はそんな中で印象深かったことを、いくつか連載でご紹介させていただきます。

今回は1992年に来日した大指揮者、クラウス・テンシュテットさんのこと。


1992年にロンドン・フィルが弊社の招聘で来日公演を行いました。その時に帯同した指揮者は巨匠クラウス・テンシュテットと若き日のフランツ・ウェルザー=メスト。
ウェルザー=メストは当時32歳で(記者会見のときにスニーカーを履いていたのを妙に覚えています)、既にテンシュテットの後任としてその1年前に同団の音楽監督となっていましたが、テンシュテットは癌で闘病中の身。来日直後に体調を崩してしまい、即座に帰国が決まり、ツアーの全スケジュールを若き音楽監督が指揮することになりました。

その当時のこと。入社1年そこそこの私が朝出社すると、(まだ当時は社長ではなく制作部長だった)梶本眞秀から急に呼び出され、
「石川くん、今から〇〇ホテルに行って、マエストロ・テンシュテット夫妻を成田空港まで送ってくれ」。
「えっ!?それは一体」
「マエストロの体調が悪くて、指揮は無理、ドクターストップがかかったんだ」
まだ右も左もわからないほどの私でしたが、ともかくホテルに行き、マエストロ夫妻をアレンジしていたハイヤーに乗せ、成田に向かいました。私がひどく緊張していたことを察したご夫妻は車内でなにかと声をかけてくれましたが、まだ英語もからきしのことだったので耳にも入らず、返答にも窮する始末でした。

空港に到着して、私は車椅子もどこで借りたらいいのかよくわからず逡巡しますと、またも奥様が「いいのよ、私たちはもう帰るだけだから時間はたっぷりあるし」といったことをにこやかに言ってくれ、救われた気分になったものの、ともかくはご夫妻の乗る飛行機の会社カウンターまで慌てて駆け出していきました。

そうして借りてきた車椅子にお乗せすると、マエストロ・テンシュテットは私の手を強く握って言いました。
「ありがとう。ほかの仕事で忙しいだろうに空港まで親切に送ってくれて。スタッフの皆さんによろしく。本当に悔しく、そして迷惑をかけて申し訳ない。でも私は必ず日本に帰ってくるから」
この最後の「I must back to Japan.」という言葉は今も脳裏に残っています。

しかし、マエストロはその6年後に世を去り、日本に再び来ることはありませんでした。

私はテンシュテットさんの指揮するマーラーが好きで、今でもよくその時のことを思い出してはCDを聴いています。

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