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2018/09/05 | KAJIMOTO音楽日記

●9/21 小菅優 Four Elements Vol.2 「Fire」 演奏曲目を予習しよう!--プログラムノートをアップしました。


世界を構成する「四元素」をめぐる小菅優の新リサイタル・シリーズ「Four Elements 」。
第2回目となる今年のテーマは”火”。9月21日(金)に東京オペラシティ コンサートホールで開催されます。今回の演奏曲目についてサウンド&ビジュアル・ライターの前島秀国さんによるプログラムノートを当HPにもアップしますので、コンサート前の予習にぜひご一読いただき、その音楽を、演奏をより深くお楽しみいただけましたら幸いです。
(PDF版はこちら)

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はじめに

 人間にとって火がどれほど重要か、それを知るためには、我々の祖先の生活を思い浮かべてみればよい。寒さに震え、活動は昼間に制限され、食料は日干しを除いて生ものだけ、という“火のない生活”を送っていた人類は、落雷や噴火が起こした山火事によって火を手に入れ、その使い方を覚え、木や石の摩擦による火の起こし方を発見し、その結果、文字通り“文明の火”を灯すことに成功した。この意味において、火の起源とはすなわち人間の起源に他ならない。だからこそ人間は、その起源を永遠に記憶すべく、これまで数多くの神話を生み出してきた(人類学者J・G・フレイザーの古典『火の起原の神話』には世界各地に伝わる100以上の神話が紹介されている)。その中で最も有名なものが、ギリシャ神話に伝わるプロメテウスの物語だ。

 詩人ヘシオドスの『仕事と日』および『神統記』によれば、大神ゼウスはティターン(タイタン)族の神プロメテウス――pro(先に)+metheus(考える者)=「先見の明を持つ者」の意――の策略に騙されて激怒し、人間から火を隠してしまった。その結果、人間は寒さに怯え、農耕や調理も出来なくなったが、そんな人間の哀れな姿に同情したプロメテウスは、天界から火を盗み出し、これを人間に与えた(現在まで続くオリンピック聖火の伝統はここに由来する)。怒り心頭に発したゼウスは、プロメテウスを磔にすると、肝臓を生きたまま鷲についばませるという残酷な刑罰を与えた。さらにゼウスは人間に厄災をもたらすため、プロメテウスの弟エピメテウス――epi(後から)+metheus(考える者)=「思慮が足りない者」の意――の許に、乙女パンドーラー(「全ての贈り物」の意)を送り込んだ。プロメテウスの忠告にも関わらず、エピメテウスはパンドーラーを妻に迎えると、彼女が持参してきた壺の蓋を開けた。すると、壺の中からありとあらゆる厄災が飛び出し、世界は厄災で満たされてしまう。しかし、壺の底にはエルピス(希望)だけが残っていた。

 18世紀の詩人・哲学者のヘルダーは、劇詩『鎖を解かれたプロメテウス』の冒頭で、次のように書いている。「プロメテウスがお前たちに与えた火を用いよ! これからもいっそう広がる人間形成の炎を、さらに煌々と輝かせようではないか」。小菅優は、まさにこの言葉から“採火”して「Fire」のプログラムを構成したと言っても過言ではない。以下に彼女自身の言葉も交えながら、演奏曲目をご紹介していくことにしよう。


“プロメテウスの火”がもたらしたもの

 ゲーテの独白詩「プロメテウス」に基づくリートを書いたシューベルトとヴォルフをはじめ、ベートーヴェン(バレエ音楽)、スクリャービン(交響曲)、フォーレやオルフ(オペラ)など、プロメテウスの物語に惹かれた作曲家は枚挙に暇がない。そうした先例も精査した上で小菅が今回選曲したのは、リストの交響詩《プロメテウス》。上に紹介したヘルダーの劇詩『鎖を解かれたプロメテウス』上演のためにリストが作曲した付随音楽(序曲と合唱曲8曲)から、序曲を交響詩として改作した作品である(リスト自身は四手版の編曲しか残さなかったので、今回はシュタルクが編曲した独奏版を演奏)。
 
「曲の中には火のイメージも登場しますが、それだけでなく、罰を受けたプロメテウスの痛みを表す激しい音楽や、プロメテウスと人間の関係を描いたロマンティックな音楽が、神話の物語を巧みに表現しています。中間部にはフーガが出てきますが、フーガというのは古風な伝統を連想させるので、それが(革新的な兄プロメテウスと対照的な)エピメテウスを表しているのではないか、という解釈もあるんです。そのフーガが人類の発展を象徴するようにどんどん発展していき、クライマックスの輝かしい火のイメージに到達します」

 “プロメテウスの火”がもたらしたもので、我々に最も身近なものは、やはり“暖を取る”ことだろう。ストーブ、火鉢、囲炉裏、炬燵、暖炉、あるいはロシアで発達したペチカ。そうした“火の暖かみ”を平易な三部形式で親しみやすく表現したのが、チャイコフスキーの性格小品集《四季》~第1曲<1月「炉端にて」>である。この作品がペテルブルクの月刊誌「Nouvellist」で初めて紹介された時、楽譜にはプーシキンの詩「夢見る人」の一節――安らぎに満ちた部屋の隅/夜が静かに帳を下ろし/暖炉の中の焔は消え/蝋燭が燃え尽きる――が引用されていた。

 「ロシアの冬はとても寒いので、外から帰宅すると、まずは暖炉の前に家族が集って暖を取ります。そんな19世紀の平和な団欒の光景が目に浮かぶようです」

そんな平和な光景も、20世紀に入るとプロメテウスの火がもたらした最大の厄災、すなわち“戦火”によって激変してしまう。今回演奏されるリストとチャイコフスキー以外の作品が、いずれも第一次世界大戦周辺の時期に集中して書かれているのは、決して偶然ではない。とりわけレーガーとドビュッシーの作品に“戦火の影”が色濃く表れている。

 第一次大戦勃発後の1915年、創作上の危機に直面していたレーガーは、イェーナに疎開することで新たな創作の炎を燃やし、彼をして「これから、レーガーにおける自由なイェーナ・スタイル(様式)の始まりだ」と言わしめるに至った。その時期に作曲された《暖炉のそばの夢》は、演奏を前提としない音楽上の“日記”として書かれたピアノ小品集。彼が見た“夢”とは――レーガー研究の碩学ズザンネ・ポップが指摘しているように――おそらくは彼が幼い頃に親しんだシューベルト、シューマン、ショパン、ブラームスの音楽の思い出に違いない。

 「全部で12曲ある中から、今回はとりわけ“暖かみ”を感じさせる曲を中心に選曲しました。同時に、私が好きな半音階和声が顕著にあらわれている第3番や第7番も意識的に選んでいます。第7番では戦争の影を感じますが、“ユーモレスク”とも呼ばれている第10番は(極端な強弱の変化などによって)それを風刺するような皮肉な表現に満ちた作品です。キューブリックの映画の例を挙げるまでもなく、皮肉な表現というのは、やはり面白いですよね。皮肉という点で、レーガーはプログラム後半に演奏するスクリャービンにも通じるものがあると思います」

 レーガーの作品から2年後の1917年、すなわちドビュッシーが亡くなる前年に作曲した最後のピアノ作品《燃える炭火に照らされた夕べ》は、同年初めにパリを襲った大寒波の最中、戦時下の物資の窮乏で石炭の調達もままならかったドビュッシーが、便宜を図ってくれた炭屋のために作曲した24小節の小品。この時期、石炭の入手は生死に関わる重大問題だったが、炭屋に当てた手紙の中で「最近の女の子は、人形(遊び)よりも石炭袋のほうを嬉しがる」と皮肉なポーズを崩していないのが、いかにもドビュッシーらしい。
 静謐な時間の中で色彩が繊細に変化していく《燃える炭火に照らされた夕べ》に対し、第一次大戦前に作曲された《前奏曲集第2巻》<花火>では、きらびやかな超絶技巧によって色彩そのものが乱舞する。7月14日の革命記念日に、夜空に咲き誇る色とりどりの花火。しかしながら花火の“火”とは――フランス語の原題「Feux d'artifice」が象徴的に示しているように――自然界に存在しない火、人間が人為的に生み出した火、すなわち大砲の火薬に由来する火である。<花火>の最後、ドビュッシーは革命歌《ラ・マルセイエーズ》の一節を引用しているが、フランス革命の“火”が人間に進歩をもたらした反面、ナポレオン戦争のような厄災を引き起こした皮肉を思い起こせば、“プロメテウスの火”がもたらしたものとは何だったのか、深く考えざるを得なくなるだろう。


火のメタファー

 現代において“プロメテウスの火”や“悪魔の火”という表現は、しばしば“制御不能な科学技術”のメタファーとして用いられる。そもそも人類が火の使用を覚えるまで、火とは本質的に制御不能な現象であった。それゆえ火が、理性を超えた行動や現象、あるいは人知の及ばぬ神聖な儀式を意味するようになったとしても何ら不思議なことではない――“恋の炎”や”浄化の炎”のように。

 生者に嫉妬の炎を燃やす死霊を、火祭りの儀式によって追い払おうとするファリャの《恋は魔術師》は、それ自体が火のメタファーの塊のような作品だ。

 「一時期、スペインの衣装や舞踊に憧れていて、カルロス・サウラ監督の“フラメンコ三部作”もよく見ました。スペインらしい土臭い民族性、ジプシー独特のリズムが<火祭りの踊り>の燃え盛る火の表現によく表れていると思います。それと、アンダルシア特有の節回しの中に気高い女性の情熱を感じさせる<きつね火の歌>。要するに鬼火のことですが、単なる“恋の炎”ではなく“誘惑の炎”の側面も強いです」

参考までに<きつね火の歌>の歌詞の意訳を紹介しておく。

   恋の炎は鬼火と同じ
   逃げれば後から追ってくる
   呼べばたちまち離れてしまう
   恋の炎は鬼火と同じ
   ようやくそれを目にしても
   黒い瞳に呪いが残る
   たとえ炎に身を焦がしても
   悲しく焼かれた心が残る
   恋の炎は鬼火と同じ
   やがて炎は消えていく

 “誘惑の炎”を自在に操ることで、人間に混乱と破壊を及ぼす存在としては、悪魔に勝るものはない。悪魔が恋人たちを嘲笑し、愛の破滅を目論む物語を描いたスクリャービン《悪魔的詩曲》は、スクリャービンと同様、悪魔を創作上のモティーフとして好んだリストの《メフィスト・ワルツ》の影響が感じられる。

「dolce appasionato(甘く情熱的に)と記された恋人たちを、悪魔がriso ironico(皮肉に笑って)と記されたスタッカートの和音で嘲笑するという、自分が多重人格にならないと弾けない難曲です。スクリャービンは、レーガー以上に皮肉な表現を好んだ作曲家だと思います。もうひとつ、この作品は基本的にハ長調で書かれていますが、スクリャービンにとってハ長調は赤を意味するので、そこに悪魔の赤い炎のイメージを感じることが出来ます」

 音を聴くと色が見える共感覚の持ち主だったスクリャービンは、交響曲第5番《プロメテウス―光の詩》で――技術的限界から不成功に終わったが――音楽と色彩の融合を試みようとした。その彼が第一次大戦勃発の1914年に作曲した《炎に向かって》は、技巧的なトレモロと神秘和声で「目も眩む光」を表現している。

 「曲の冒頭から最後まで、輝かしい“白い光”に向かってひたすら一直線に進んでいく作品です。“白い光”にこだわっていたスクリャービンにとって、“炎”とは一体何を意味するのか。私なりの考えですが、おそらくそれは死後の世界、あるいは天国だと思うんですね。avec une joie voilée(ヴェールに包まれた喜びをもって)という書き込みが表しているように、スクリャービン特有のエクスタシーと一体化した歓喜の光ではないかと」

 プログラムの最後に演奏されるストラヴィンスキーバレエ音楽《火の鳥》は、ロシアの民話に登場する火の鳥、すなわちフェニックス(不死鳥)をモチーフにした作品。火の鳥の魔法の羽根を手にした王子イワンが、魔王カスチェイに捕らわれていた王女たちを救い出し、王女のひとりツァレヴナと結ばれるという物語である。作曲者自身は1910年全曲版のピアノ編曲譜を残しているが、今回、小菅はその編曲譜から重要なセクションを抜粋し、一般に親しまれている1919年組曲版の構成に準じた形で演奏する。

 「火は、いつかは消えてしまうという点で、四元素の水や土とは異なる儚い存在です。でも、フェニックスは何度も生まれ変わるので、輪廻そのものと言えるかもしれません。《火の鳥》の最後は、真っ赤な太陽が昇るような輝かしい響きに包まれます。太陽も究極的には“火”。ホール全体を包み込む真っ赤な響きの中に、永遠に輪廻転生する生命の“火”を感じていただければと思います」

 古代エジプトにおいて、フェニックスの原型とされる聖鳥ベンヌ――炎の中に毎晩飛び込み、灰の中から毎朝生まれる――は、太陽の象徴とみなされていた。たとえ“プロメテウスの火”が厄災という闇をもたらしたとしても、いつかは光に包まれた朝がやってくる。この意味において、火の鳥すなわちフェニックスの太陽は、パンドーラーの壺に残ったエルピス、すなわち希望なのだ。


前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)
 


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9月14日(金) 19:00開演 FFGホール
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・東京公演
9月21日(金) 19:00開演 東京オペラシティ コンサートホール
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