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2018/06/27 | KAJIMOTO音楽日記

●フルシャ&バンベルク響のツアー、始まりました!―― サントリーホール初日公演を聴いて



写真はバンベルク響のFacebookより。サントリーホールにおけるリハーサル


指揮者が変われば、オーケストラの音も「それなりに」変わる。
特に前回来日した時の指揮者は巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットでしたから、若き俊英、新首席指揮者ヤクブ・フルシャとのコンビで初めて聴くと、相対的に随分変わったように感じました。もちろんバンベルク響の特徴である、ずっしりした低音(チェロ、コントラバス)を土台に、厚く柔らかく広がるあたたかい音色という「核」には違いはないのですが、ジョナサン・ノットの頃はもちろん、ホルスト・シュタインが振っていた時よりも、ある種の「ローカル感」や、少々アグレッシヴなくらいの「自由」(特に管楽器)が増していたのが印象的。プラハをルーツにした南ドイツの小都市のオーケストラ、というDNAが先祖帰りをしている?・・・もちろん「いい意味で」ですが、色々裏切られた面白い演奏会だったな、とあたたかい気分になりました。

そうした音を基調に、2010年のショパン・コンクール優勝者であり、果敢にストイックに様々な音楽の美を極めんとする名手、ユリアンナ・アヴデーエワとのブラームス「ピアノ協奏曲第1番」では、思いのほか透明感とぬくもりのある弦楽器群のフレーズと、キレのあるピアノの音が融け合ったり、コントラストを築いたり、そして時に激烈に、時に深い祈りを湛えた演奏を展開。
しかしバンベルク響はこの曲をよく日本にもってきますよね。かつてエリザベート・レオンスカヤ、ラドゥ・ルプー(シュタイン指揮)、ピエール=ロラン・エマール(ノット指揮)でも聴きましたが、そのいずれとも違う、若き日の・・・未熟さもままあるブラームスが感じられる演奏でした。

バンベルク響の「今」がとても色濃く出ていたのが、後半のドヴォルザーク「新世界」交響曲だったと思います。フルシャも自国の代表的な音楽を指揮するのに、並々ならぬ思いがあったのでは? 
第1楽章冒頭、音が出るまでのヒリッとする緊張感、そしてその緊張感が過剰だったのか、出だしが神経質だったり、そのあとのフォルテで出るあたりのアインザッツが乱れたりしましたが、リピート後のその先は、バラけかけていた全パートが見る見るうちにまとまってきて、素晴らしく音楽にふくらみが出てきました。
バンベルク響のプレイヤーたちは、昔から(ボヘミア風の?)即興的なノリのいい感覚がある分、機械的に整然とアンサンブルを揃わせる、というより、各々の自発性が一体になるアンサンブルをよしとする気風があるようで、ああ、これがバンベルク響だなあ、とこの時感じ入った次第です。

そしてフルシャは前半のブラームスでもそうでしたが、音楽を創るにあたって、フレージングや音のイントネーション、アクセントを丁寧に整えていく人なのですね。そうした細部の積み重ねをベースに、全体としては思い切り大きく動かす―― ダイナミックだったり、静謐な祈りだったり―― 、そして何か優しさや良心を感じさせてくれる。いい若手が出てきたんだなあ、と今更ながら感心します。
話は戻りますが、この「新世界から」では、冒頭に書きましたオーケストラの「ローカル感」が作用したのか、フルシャの丁寧な指揮のせいなのか、それらが渾然一体となって練りあがり、この曲が土俗的ローカルの素材から昇華した、ドヴォルザーク快心の大交響曲なのだということを(こうしたことは楽曲解説にいつも書いてあることとはいえ)、これほど新鮮に実感させられたことはありません。ローカルと都雅の間。
第1楽章からフレーズのひとふしひとふしが懐かしく心に響き、コーダの「コペルニクス的」(?)な劇的な大転調、第2楽章のイングリッシュホルン(彼女はここだけを吹くために舞台にいました!オーボエと持ち替えではなく)の切なく沁みるあのメロディ、そして中間部での弱音による遥かな夢の中での出来事のような世界、第3楽章の2番めのトリオでの、人はこうありたいよね、と思ってしまうような素朴な踊り、フィナーレでの多彩な自然の移り変わり―― すごく多くのものを聴かせてくれたフルシャ&バンベルク響に感謝しています。

***

6/29(金)にサントリーホールで彼らが演奏するのは、打って変わってマーラー「交響曲第3番」。いや、打って変わって、でもなく、こちらも今のフルシャ&バンベルク響は同じボヘミアがルーツの、“自然が”たっぷりの一大交響曲を存分に描いてくれるものと確信しています。
ぜひご期待ください!

(A)


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